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2019年待降節黙想会講話 「心の大掃除(糾明)」

2019年12月15日

2019年待降節黙想会

2019年12月15日、カトリック本郷教会

講話

♰ 父と子と聖霊との御名によって アーメン

いつくしみ深い全能の神様、これから行う黙想会に参加するわたしたち一人一人のうえに、聖霊をお与えください。わたしたちの心を開き、あなたの言葉に耳を傾ける事ができますように。
主キリストによって、アーメン。

わたしが本郷教会に任命されて初めての待降節でありますので、黙想会はわたしがお話をすることに致しました。4月21日の復活祭の時から、浦野神父様に変わってわたしが皆さんと一緒に歩むことになりました。
皆さんとお話しする機会はミサの時が一番大切であります。できるだけ、ミサ中に皆さんと信仰を深めるようにしたいと努めています。ミサの開祭の時にわたしたちは毎回、告白の祈りをしております。
「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」そのように、罪の告白をしております。
今日、この祈りを手掛かりにいわば、心の大掃除というものをしましょう。年末になって、わたしたちは自分の家、職場、そして教会の大掃除をするわけであります。そして、すっきりとして色々なことを整理して、清らかな心になって、新しい年を迎える。で、わたしたちの場合はクリスマスが来ますので、イエス・キリストをお迎えする準備をしましょう。
まあ、通常、誰かがおいでになるにはそれなりの準備をするわけでして、失礼のないように、あるいは、我々の感覚・・というかわたしの感覚かな、恥ずかしくないように片づけたり、掃除したりするわけですが、イエス・キリストがおいでになるということは、いわば霊的なことなので、霊の世界の問題、目には見えません。もっとも、世の終わりには、再臨なさってすべてを新しくしてくださる。それまでは毎年、クリスマスには、幼子の姿をしてお生まれになったことを記念し、わたしたちの心に生まれて下さるように願うわけです。そうすると、わたしたちの心がお迎えする方に向いていないと、イエスも入りにくいというか、入れない。ブロックされちゃいますと入れませんので、心を開いて、どうぞお越しくださいとお願いするわけであります。その場合、わたしたちがどういう準備をしたらよいだろうかということが問題であります。
そこで、今日は赦しの秘跡を受けるために、あるいは、受けなくとも、それぞれの方が自分の心の整理をするために、短い時間ですが、日常のことがらから離れて、ゆっくりとお掃除いただきたい。たいへん皆様のためになると思います。
あらかじめ、「黙想会の手引き」というものを準備いたしました。ちょっと聖書の引用が多すぎる感がありますが、これは、まあ、聖書はどの個所も大切ですけども、わたしにとっては選りすぐりの箇所です。これを皆さん、味わって頂きたいのであります。

まず、2番目の引用ですが、創世記ですね。創世記は神が天地万物をお造りになった次第を述べています。六日目に人間をお造りになったと書かれているわけですね。そして、ご自分の造られたものをご覧になって、「極めて良い」とされたわけですね。「極めて良い」。神様の造られた世界は極めて良いものであります。その世界に乱れというか、歪みが生じたわけであります。生じているわけであります。
まあ、神様は人間と違って、時間というものがないというか、時間に支配されていないで、過去現在未来と言う区別がどうなっているのか、わかりませんが、わたしたちは、今日があって、昨日があって、明日があるという世界に生きているわけなんですけれども、神にとっては、すべてが極めて良い、と。なにしろご自分の作品ですから、ご自分が極めて良いわけですから、ご自分から出た者は極めて良いはずであるんですね。途中いろいろなことがあったとしても、最終的には神の計画は成就すると信じているわけで、新しい天と新しい地、ということばで表現されている世界が完成されます。あるいは、神は最初から見ている世界は我々が見ている世界とは違う。ヨハネの黙示には、新しい天と地が現れる、と書いてありますし、イザヤの預言にも、新しい天と地、ということばがある、あと、ペトロの手紙にもある。非常に大切なんですけれども、その、新しい天と地が人間の目から見ると、完成するまでわたしたちは地上の旅をしているわけであります。そして、この、人間というものはどういうものなのでしょうか、あるいは、自分はいったい何者であるのか、救いというのは、もしかしたらですね、自分を発見すること、他の人でない、他ならぬこの自分、という存在をみつけることではないだろうか、と。
わたしたちは自分さがしの旅をしているとも言えましょう。

まあ、そういう天地創造の話なんですが、最初の人間がアダムとイヴ、そしてアダムとイヴから生まれた二人の男の子がカインとアベルであります。カインは農業をする者、アベルの方は羊等を飼う、養う、牧畜をする者だった。イスラエルの歴史はその、本来はイスラエル人は羊、山羊、牛等を飼う人達だったので、もうカナンに住んで農業をするようになったんだろうと思いますが、そういう歴史を反映してるんでしょうかね、カインは農業、それからアベルは牧畜、で、二人とも神さまに自分がよいと思う物を献げ物として神様に差し上げたが、カインはその献げ物に目を留めてもらえなかったが、アベルの供え物は受け入れられた。その時のカインが感じたストレスというか、カインは激しく怒ったわけです。

カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:5~4:7)

このカインは何を感じたのか。同じように一生懸命よい物を献げたけれども、アベルの方は神様から喜んで受け取ってもらえたのに、自分は受け取ってもらえなかった、というこの体験ですね。その時、どう感じるか。わたしたちの人生でこういう事は頻繁に起こっているのではないだろうか。そういう時に、どうしたらいいか。カインは激しく怒った、と。誰に怒ったか、というと恐らく神様に怒るのが筋ですよね。アベルに怒っても、アベルは関係ないんですからね。でも、彼の怒りはアベルの方に向けられたわけです。神様に闘っても勝つわけがない、神様は目に見えませんからね。神に怒るってどういうことかよくわからないんですけれども。で、我々の場合も、怒るとまで言わないまでも、妬みとか、憎しみ、恨み、かな。憎しみがたまると恨みになるっていうかね、そういうものをどこに向けたらいいのか、と。どうやって発散させたらよいか、まあ、最近は「ストレス」ということばがあって、ストレスを発散させる、ということなんですけれども、わたしも聞かれることがあるんですけれどね、「色々お疲れでしょう、ストレスがあるでしょう、どうやってますか?」「いやあー、でもねー・・・」とかって、ええ。で、やつあたりするとか、弱い者いじめするとか、ぶつけても大丈夫だと思う相手に自分の満たされない思いをぶつけるのが通常で、とても勝ち目がないとか、やっても無駄だとわかっていればそっちにはいかないのでしょうかね。怒り、と言わないまでも、不快というか、気分が悪い、おもしろくない、これは、我々が毎日対面していることではないだろうかと。どんなことでも楽しくて、ルンルンっていう人はちょっとおかしいのではないかと思われるぐらいなんですれども、この世界、おもしろくない事、不快な事、怒りを引き起こすことはたくさんあるわけですね。その場合にどうしたらよいだろうか、という。ある時に「なぜ人は怒るのか」という本を見つけたんで、それを買いました。そして、そういう目で見ると、怒りについての本っていうのはたくさん出てるんです。驚きますね。経営者にとっては非常に重要な問題らしいですけれども、怒らないですむ為にはどうしたらよいか、等の本が非常に多いわけでありますが、「お前はそれを支配せねばならない」んですね。怒りの感情を持たないことはできない。人間は、妬んだり、怒ったりするものであって、そういう環境に出会った時にどうするかはその人に任せられているが、怒りを持たないようには、神様は造ってくれなかったわけです。
それから、むしろ怒るべき時に怒るべきなんですよね。イエスは怒らなかったか、というと猛烈に怒ってますね。怒ってるんですよね。自分では「わたしは柔和で謙遜だから、わたしに従いなさい」って言ったようですが、言ったんですけれども、相手に向かっては、痛烈な批判をしている。ああいうこと言ったら、怒らせる、憎まれるのは当たり前ですね。反発を買うことが分かっていても敢えて怒りをぶつけることを行った、ファリサイ人や律法学者、そして祭司、ようするに当時の権力者、支配者が怒るような、まあ最初はそれほどでもなかったかもしれませんが、彼の言動は、ですから、貧しい人、病気の人、身体の不自由な人、弱っている人には限りなく優しい牧者でありましたが、権力者、思いあがっている者に対しては痛烈な批判をする人であったのです。

さて、パウロという人も非常に激しい性格の人であったようであります。パウロは、新約聖書の半分ぐらいの部分をしめているわけなんですけれども、「ガラテヤ書」というのがあるわけなんです。そして、この人間の心にある、心に浮かんで来て、心を支配するかもしれない思いを二つに分けて、
「肉の業」と「霊の実り」「霊の実」と言っているわけですね。霊の結ぶ実、これはすばらしい。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」わたしたちが毎日色々な事に出会って、おかげさまで、平和っていうか、無事にというか、過ごしていますが、多くの人は、あるいは多くの場合、人間は基本的にはいつも平和なんですよね。愛、喜び、平和の人なんです。しかし、何かの拍子にそれが破れてしまう。そうすると、どうなるか、それをパウロは「肉の業」と呼んでいるわけです。聖霊の支配からそれてしまうとどうなるか、このリストの方が数が多いので、これを見るといつもうんざりしちゃいますけれども、最初にあげられているのは、いわばSEXに関することで、「姦淫、わいせつ、好色」。次に「偶像礼拝、魔術」というのは、ちょっとピンときませんが、彼らの時代には非常な問題となることだったけれども、あとは、対人関係に関わる問題、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」あと「泥酔、酒宴」となっていますけれども、だいたい、人との関係の中で行われる悪い思い、というものですよね。それで、皆様はご自分の心をのぞいて見た時に、ここにあげられているようなことが、全くない、という人はいないと思う、全くない、とは言えない。ただ、そういう心が出て来ても、あるいは湧いて来るのか、どこから来るのかわからないけれども、それを、皆さんは制御しているというか、コントロールしているわけですね。でも、場合によってしそびれてしまうこともあるわけです。最近痛ましい色んな事件、官僚で最高の地位まで進んだ人が、思いあぐねてついに自分の息子を刺し殺してしまった、という事件が報道されていますけれども、よくよくのことなんだろうと思う。立派な方だと思う。だけども、どうして自分だけでその問題を抱えないで、色々な人と相談しなかったのかなあと思うが、おそらく、自分の家の、いわば日本人の感覚では恥になることは、知られたくないという思いだったんでしょうか、よくわかりませんが、自分のしたことは極めて悪いことだとは思っている、と言っておられましたが、まあ、とにかくそういうことが起こるわけです。わたしたちはそんなことはしませんが、しかし、特定の人に対して敵意を抱いたり、おもしろくないと思ったりすることはある、だからといってどうこうしないですよね、しないけれども、自分はしてないつもりだけれども相手から見れば、不快な事もあるのかもしれない。まあ、皆さんにお聞きしたいんだけれども、わたしの場合は、自分で自分の思いというものは、こんなことをどうして思うのかと思うけれども、思う事を思わないようにはできない、わたしにはできないですね。でも、思うからといってそれを行動に移したりはしないわけです。その思いをどうするかっていう問題が、自分にあるんですね。

ですから、それを言葉で表すということが、次にやることなんですけれども、言葉で人を傷つける。言葉は人を助けるために、人を励ます為にあるんです。しかし、ついひとこと言ってしまう。ひと言多い、と。あるいは、直接ストレートに言えばまだわかりやすいけれど、遠回しに言ったり、嫌みを言ったり、あまり考えすぎると嫌みが通じなかったりするんですけれども、嫌みというか、嫌みを言うぐらいなら、素直に言えばいいんだけども、なかなかその人には、はっきり言えない、言いにくい。これは難しいことなんですよね。
それで、4ページを見ていただきたいんですが、キリスト教では十戒、十の戒めがありますが、仏教のある宗派なんでしょうか、「十善戒」というものがありまして、十の善い戒め、善いことをするように、悪いことをしないように、という戒めが十ありまして、十の中に、「殺してはならない」など、十戒と共通した教えがありますが、実に、十の中の四つが言葉に関することなんですよね。これ、皆さん、高尾山に行ったことがありますか?高尾山に行くと看板がかかっていて「十善戒」とか書いてありますけど。ちょっと、我々の理解と多少違うような説明がありますが、

 嘘をつかない。ですね。「不妄語」と言うんだそうですが、嘘をつかない。まあ普通、嘘はつきませんけれども、真っ赤な嘘、誰がきいてもわかる嘘っていうのはつかないんですけども、嘘を少し入れたようなことを言ってしまう。それをするのは、相当頭のいい人なんですけれども、嘘を言うっていうのは、知的な能力がないと言えない、誰に何を言ったかを正確に覚えていないと、矛盾するようなことになっちゃうんですけれども。嘘はつかない、ですね。
 それから、「不綺語」というんですけど、飾り立てた言葉、ありもしない事を言って人にへつらわないこと。調子のよいおべんちゃらを言って、相手はいい気にさせられる、へつらうという、これはやりがちなことで、まあ、皆さんどう思っているかわからないけれども、わたしはへつらわれることは随分ありました。でも、へつらわれてると悪いですね、なんかいい気分になっちゃうんですね、いい気分になって、後で、「あ、ああいうこと言った同じ人がこういうことしてる」と。それに気がつかないお前が裸の王様で馬鹿なんだ、と思えばいいんですけれども、へつらう、ということは人間の世界でよくあることなんですよね。
 乱暴な言葉を使わない。「不悪口」。言葉は非常に難しいわけです。丁寧な、あまり丁寧過ぎても伝わらないですよね。我々は丁寧な、遠回しなことを言って、結局本当に言いたいことが伝わらない。そこで、今度はそれを飛び越して、ずばりと言っちゃって相手を傷つける、という、本当に言葉は難しいと思います。
 「不両舌」二枚舌を使わない、筋の通らないことを言わない。嘘をつかないのと、二枚舌を使わない、っていうのと、同じようなことかと思うんですけれども、二枚舌というのはよくわかるんですね。
あっちではこう言うけど、こっちでは別なことを言う、というようなことであります。
 新約聖書に「ヤコブの手紙」というのがありますが、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分自身を制御できる完全な人です」(ヤコブ3:2)とあります。言葉を制する、ということは暴れ馬を乗りこなすのと同じことで、言葉自体が独り歩きして、気がついたらもっと耳障りな言葉を言ってしまっている、ということもありますね。ですから、毎日、自分は今日どういう言葉を口にのぼらせたか、それから、どういう言葉を聞いてその時自分はどう感じたか、ということを毎日、寝る前に思い起こすことは、それを毎日やっていれば随分進歩するはずなんですけどね。まあ、78年生きてきて、あまり進歩してないですけれども。自分で言ってるんだから、今日からしっかりやろうかな。とにかく、言葉は人を慰める、励ます、助ける為にあるわけで、人を傷つけたり、憎んだり、退けたりする為にあるのではないわけなんですが、なかなか言葉を制御することができない。

「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」

「行い」は、行いと言うと、これはやったか、やらないかがはっきりするんですけれども、ご存知のように、罪というのは、犯罪ではない、それから単なる違反ではない。交通違反ならすぐ違反したとわかるけれども、つかまって。まあ、心の中で、つかまらなきゃまあいいか、みんなやってるから、と思ったりもします。あんまり罪悪感ていうのはないし、たまたま取り締まりにつかまって、つかまっちゃった、というくらいの思いしかない、ま、わたしの場合はそうなんですけれども、申し訳ないですけれども。でも違反は違反です。社会の規則を守らなければならないわけですが、ここでいう、行いによる罪、というのは、これは、イエス・キリストがお命じになったようにしなかった、ということで。これは、合格する人はほとんどいないだろうと。自分を愛するように隣人を愛しなさい。例えば、そう言われても、深くそのことを考えて実行しているかどうかと言われると、だいたい不合格になってしまうのではないか、と思っているんですね。

そして、「怠り」であります。確か、昔は「怠り」という言葉は入っていなかったが、途中から怠りの罪というものを入れましょうということになった。これを言われると、ほとんど失格という。あまり、大きなことだと、皆、入るので、この世界に対する怠りなんていうと、なんだか考えられない、世界の平和の為に助けることを怠っていないか、と言われるとええ、まあそれはそうなんですけれども、更に、宇宙、自然、自然破壊を止める、止めさせるための運動をしているか、っていうとそう言われても話が大き過ぎちゃうんですよね。今、大変な問題なんですけれども。そこで、身近なところから考えたら、自分に近い人ですよね、生活や仕事上、そうすると毎日会う人、一緒にいる人ですよね。こちらの方が難しいですよね。まず、相手の為になることをわたしたちはしているわけだ、大部分しているんですけれど、でも、わからないですから、こうしてほしいと相手が思っていることをしていない、こういう事はしてほしくないと思っていることをしてしまう、わかってもしてしまう、あるいはわかってもしない場合と、わからない場合とがあるんで、わからない場合が多いと思うんですよ。わかんないんですよ、すぐそばにいる人が何を望んでいるか、何はしてほしくないと思っているのかを、どれだけわたしたちは、わかっているのか。ある時、膝をつきつめて、はっきり言ってくれよ、なんていうのは穏やかじゃないんで、それは察しあうことでありますが、わたし、つくづく思います。もちろん、司祭、司教ですから家族と生活していませんけれど、まあ、わたしももちろん家族はいますが、同じ親から産まれた兄弟姉妹いるんですけれども、一緒に暮らしたり、一緒に仕事したりしている人のことがわからない。むこうはもっとそう思っているかもしれないけれど、どうしてこうなんだろう、と思っても言いにくいから黙っている、そのうちなんかの拍子にわかる、「ああ、この人は何年もそう思っていたんだ」と。ある日突然つかまえて「わたしのことで嫌な思いをしているんだったら、言ってくれよ」って、そういうわけにはいかないですね。どうしたらいいか、わからないんですけれども、まあ、せめて、相手を問いつめるというようなことは置いておいて、自分は特定の人との関係においてどうだろうかと、こちらはただ嫌だと思っているだけでそのこと自体は、罪でも何でもない場合もあるんで、ま、ないんじゃないかなあ、
ものすごくどうでもいいこと、扉の開け閉めの仕方が気に入らない、こういうのはないですか?
わたしはあったんですけど。あるいは、本当に些細なこと、だけどもっと大きな、大きいって言ったって一緒に食事する時に、よく親から言われますよね、箸の使い方が悪いとか、口をパクパクさせるなとか、大人になってそんなこと言う人はいないわけで、思っても今さら言わないとか、でもそういうことは些細なことでどうでもいいんですけれども、しかし、重要なことがある。たとえば、わたしが、こうしてほしいと思っても、それがわかっているのか、わかっていないのか、なかなかしてくれない。それで、つい、もう、やっととにかく、言わなければ通じないかもしれないので、言ったんですけれども、それがわかったのか、わからないのか、我々の会話っていうのは不器用ですから、「ああそうですか、わかりました、はい、気をつけます」だけど、こちらか見ると全然、直っていないわけです。ということは、わたしも相手から見ればそうなのかもしれんなあ、と思うんですね。それで、人はああしろ、こうしろって思うのは勝手なんだけれども、しかし、違うもの同士が一緒に生活し、仕事をする時に、人にはそれぞれやり方があるんで、自分と同じようでないからといってイライラしても始まらないんでしょう。受け入れないといけないんですけれども、心が広い、深い人は気にしない、気にしても妨げられないんでしょうが、なかなか難しい。もしかして、誤解かもしれないですね。誤解っていうのは多いんですよね。相手は全然そうは思っていないんだけれども、こちらが一方的に深く傷ついちゃった場合もあるのかなあとも思う。わたしもあるんですけれども、むかし、中学生ぐらいの時に言われた言葉がグサッとわたしの胸に突き刺さって、折々に忘れる頃にまた思い出す、というようなことがある。だけど相手は夢にもそれは思っていないと思うんですね。
まあ、それたんですけれど、話は「怠り」っていうことなんですが、今我々がなすべきことは何なのか、家庭で、教会で。特にこの教会、本郷教会でなすべきことは何なのか。わたしもいろんな機会にお願いしていますけれども、それから、信者の代表の方の会もある、そして、すべきことはたくさんあるわけです。それから、教区として、大司教から色々な要望も来るし、問い合わせもありますよね。それから、日本の教会。そして全世界の教会で教皇様が日本に来て下さって、色々言ってくださった、教皇様の声にどう応えるか、ということなんですよね。それで、まあ、本郷教会のインターネット、ホームページを見ると、「都会のオアシス。本郷教会」って書いてあると思うんですけれども、「オアシスになること」だと思うんですよね。なってはいる、なってはいるが、もっとならないといけないと思うのであります。

話が長くなりますので、あとは聖書を読んで黙想し、それから赦しの秘跡を受ける方はどうぞ来てください。赦しの秘跡については、もちろん自分の心にあることを言葉に出すということは、かなりな勇気がいることであって、エネルギーを使います。できたらよいが、今日、そういう言葉がはっきりみつからない方は無理にしなくとも結構であります。あるいは、したいけど、岡田にはしたくないと思う方もいるでしょう。全く自由でございます。それから、しなければ、神様から罰せられるという恐怖は持たなくても大丈夫です。神様は全ての人の心をご存知ですから、安んじて神様にはお話しして下さい。

神は光です。神という光が差してくると、汚れやほこりがよく見えるんですね。光がないところでは汚れていることがわからないですよね。普段は見えないけれども、明るい光に照らされると、こんなほこりがたまっている、というようなものですから、今日は、皆様の心のほこりをはたいて頂くというようにして頂けたらと思います。
それから、旧約聖書の箇所を引用しましたが、神はご自分の造られた物を愛しておられる。嫌ったり、憎んだりは絶対にしない。何しろ自分が造った物ですから、自分の気に入らないことをするからって嫌ったり、排除したりはしない。「あなたはすべてをいとおしまれる。」(知恵の書11:26)ということです。イスラエルの人々は、神様がどういう人かということを2000年、3000年かかって黙想したわけで、預言者が色々神様について話したが、そうすると、意外な言葉が見つかったりするんです。
神はいわば、身もだえして、悩む。神が悩むというのは矛盾のようですけれども、イスラエルの神はそういう神である。

ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て ツェボエムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。 (ホセア11:8~11:9)

ということは怒るんですね。怒る、神様は怒りという感情に襲われないのかというとそうではない。
神は怒る。ものすごく怒る。めちゃくちゃに怒る。だけど、怒りをもって人間を滅ぼすことはしないと自分に言い聞かせている。ですから、神様でさえそうなんですから、我々怒っても、怒りをどう制御するかが問題であって、怒っている自分を「ああ、お前は怒ってるな、どうしてそんなに怒るの?神様でも怒るからしょうがないね」と言ってあげてもよいのではないかと思うのであります。
それでは、わたしの話は以上でございます。

あと、それぞれで過ごしていただいて、赦しの秘跡を受ける方、あるいは、あ、申し上げますが、赦しの秘跡っていうのは、自分の罪を述べて赦しをもらうこと、自分の罪ですよ、他人の罪じゃないですから。それから、わたしにお願いがある場合にお願いを言う場ではなくて、でもお願いはどんどん言ってください、だからそれは別な時に。できることは応じるようにしますが。あるいは、なんだかわからないけれど、他人には言えないけれど、あなたなら聞いてくれる、誰にも言わないだろうということで、罪かどうかわからないけれど、モヤモヤしていることでもよろしいです。だいだい、罪か罪でないかを区別する勉強ばかりさせたんですね。そんなにはっきりしていれば、もう罪は罪でないようなもので、だいたい人間っていうのは、その、自分がはっきりとした善悪の区別ができる状態にないわけですよね。ないと思う。でも、これではいけないんだ、とスッキリしていないわけです。だから、そういう思いをどういう言葉であれ、おっしゃって頂ければ、わたしにではなく、神様に言っていただくわけだから、皆さんの心の整理になるでしょうから。わたしも何年も告解を聞いているうちに段々そう思うようになった。「あなたの罪を言ってください。あなたの他のことはいいんです」と、言いたくなるのを我慢しているうちに、ここに来てこれだけ言うっていうのは大変だなあって、自分が告解する段になると、「つまり、あのー」とか、遠回しでなかなか核心にいかない、という。だから、どんなやり方も受け入れますので、ご安心ください。では、よろしく。