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イエスの福音への招き「洗礼者聖ヨハネの誕生とイエス」

2020年06月24日

洗礼者聖ヨハネの誕生(祭日)

2020年6月24日(水)

 

6月24日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日であります。主イエス以外で、その誕生を祭日として祝う聖人は、聖母マリア以外には、本日祝う洗礼者聖ヨハネだけではないかと思います。
それほど洗礼者聖ヨハネの果たした役割が重要であると考えられています。
ヨハネの誕生とイエスの誕生の間に、ちょうど6ヶ月の期間があります。
ヨハネの果たした役割は、イエス・キリストの到来を準備するということでありまして、ちょうど旧約の時代から新約の時代に繋がる「つなぎ目」の役割をした人であります。

マタイの福音で11章11節に、不思議な言葉がみられます。
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」
この言葉は、何を言っているのだろうか。
前半は、大変、ヨハネを評価する言葉である。ヨハネよりも偉大な者は、今までに現れたことはない、とイエスは言われた。しかし、その直後に言われた言葉が少し分かり難い。天の国では、最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である。

ここに旧約の時代と新約の時代の比較があるのではないだろうか。
洗礼者ヨハネのイメージというのは、どういうものであるかと言うと、荒れ野で厳しい生活をし、らくだの毛衣を着て、イナゴと野蜜を食物とし、とても普通の人にはできない難行苦行の生活をしながら、悔い改めを説いたわけであります。

イエスの方は神の国の福音を説きました。
イエスの周りには貧しい人が沢山集まっていました。イエスは貧しい人々と親しく交わりの時を持ち、また、罪人として蔑まれていた人々、ゆっくりとしたよく食べよく飲む生活をしていたようであります。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ7・33)と悪口を言われています。

洗礼者ヨハネは、ヘロデによって斬首の刑を受けましたが、イエスは十字架の刑に処せられ、そして三日目に復活されました。
二人とも処刑されたわけですが、ヨハネを引き継いだイエスの死の後、教会が生まれました。
イエスの死後、生まれた教会は、神の救いの福音を宣べ伝え、今日の教会へと発展しました。

洗礼者ヨハネは、神の厳しい掟を説き 悔い改めを説いたのでありますが、
イエスは愛の掟とともに 罪の赦しの福音を伝えたと思います。

キリストの聖体 の説教で申し上げましたが、イエスが十字架の上で流した血は、罪の赦しのための新しい契約の血 となったのであります。

 

第一朗読:イザヤ書(イザヤ49・1-6)
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠してわたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った わたしはいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

第二朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録13・22-26)
(その日、パウロは言った。「神は)サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ(たのです。)」

福音朗読:ルカによる福音書(ルカ1・57-66、80)
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。