カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「二羽の雀の話」
2020年06月21日
2020年6月21日、本郷教会
第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ20・10-13)
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・12-15)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ10・26-33)
ほんとうに久しぶりに、この聖ペトロ聖堂で主日のミサを献げることができますことを、ご一緒に喜びましょう。
今日の福音朗読で、イエスは使徒たちを宣教に派遣するに際して言われました。
「恐れてはならない」
三度も言われました。
「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
アサリオンという貨幣の単位はいくらぐらいの価値のある貨幣であるのか。
「聖書と典礼」の脚注に出ておりますが、1デナリオンの十分の一にあたる。デナリオンというのは一日の日当であります。1羽では売り物にならないということで、2羽1組で売っていたのでしょうか。いくらぐらいになるのか。300円とか、500円とか、2羽でまとめて売られていた。それほど価値の低い売り物でありました。ほんとうに取るに足りない安い売り物である。その雀さえも、神のご保護の中におかれている。まして、雀よりはるかに優れている人間は、髪の毛の数さえ、神に数えられているのだと。髪の毛の数。自分の髪の毛の数を数えた人はいないでしょうし、知っている人もいないでしょう。(ま、少なくなった人は別ですけど。)
これはたとえ話であります。神はわたしたちひとり一人の人間のことをすべて隅々までご存知である。当人が知らないことまで神はご存知で、わたしたちを守り、そして永遠のいのちへと導いてくださる。
たとえ体が滅びることがあっても、あなたという人間は永遠のいのちの世界へ移され、そしてイエス・キリストの復活の栄光に与るものとされるのだ。だから恐れることはない。そのように言っていると思います。
とはいえ、わたしたちは日々、自然の体の死、人間の日常の死、ということを体験しています。最初の人間とされるアダムの罪によって、この世に死というものが入ってきました。
第二朗読はローマ書の5章であります。一人の人によって死が人類に入ってきたが、一人の人、イエス・キリストによって、永遠のいのちがもたらされました。イエスの死と復活という出来事はすべての人に及ぶ永遠のいのちの恵みをもたらします。
ここにわたしたちの信じる信仰の神秘があるのであります。信仰の神秘はこのメッセージの中に込められています。そもそもわたしたち人類は、皆、つながりの中におかれている。同じ神によって創造された人間は、全て良いことについても悪いことについても、つながりの中に置かれています。最初の人、アダムに起こった悪いことは、不可避的に避けられないような仕方で、全ての人に影響を及ぼしました。わたしたちは、人類は、行い蓄積してきた悪のなかに生まれました。誰も自分の出生を選ぶことはできません。従って、この悪の連鎖の世界の中に生きることを免れないのであります。この悪の連鎖の中に生まれることを、「原罪」という言葉でいうことがあります。しかし、この悪の連鎖反応に比べて、善の、善いことの連鎖反応は、比べものにならないほど強く、そして、頼りになるものであります。善の連鎖とは、イエス・キリストの生涯、特に復活がもたらした恵みを指しています。復活したイエス・キリストは、聖霊を注ぎ、一人一人を内側から新しい人に生まれ変わらせてくださいます。
とはいえ、この善の連鎖反応は、いわば、自動販売機のように機能するものではありません。わたしたちの側の「信仰」という応答が必要であります。イエスによってもたらされる恵みを認め、受け入れる人間の側の応答が必要であります。教会は、人々がそのキリストの働きを受け入れるようにと、人々に呼びかけ働きかける使命を帯びています。
悪との闘いは、時には非常に大きな苦しみを伴います。今日の第一朗読、エレミヤ預言者は、その苦しみをエレミヤ書の中で告白しています。現代の教会も、悪との闘いの中で苦しんでいる部分があります。復活のキリストの再臨のときは、この闘いに終止符を打つとき、最終的な悪への勝利のときであります。そのときが来ることを待ち望みながら、希望のうちに歩んでまいりましょう。