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イエスの福音への招き「イエスのみ心」

2020年06月19日

イエスのみ心

2020年6月19日(金)、本郷教会

 

纏まりのない二、三のことを申し上げます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
この今日の福音の言葉を味わってみたい。

「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。」
イエスはそう言われた。

この本郷教会の掲示板に掲げられている言葉です。

何年か前のことですが、毎月一回土曜日、私は(カテドラルから)不忍通りを歩いて本郷教会に通っておりましたが、その途中もうだいぶ本郷教会に近いところにあるルーテル教会にも同じ言葉が掲示されておりました。

福音というのはなんであるか。
人びとに安らぎ、あるいは憩い、あるいは癒しを与えることではないかと思う。

私の印象では、従来罪からの赦しということを強調してきたけれども、私達が日々感じ、思っている救いというのはどういうことか。
私達自身の存在自体にある不安な、そして満たされていない状態ではないだろうか。
その中に病気ということもあるし、孤独ということもある。
そういう現実を罪という言葉で括ると分かり難くなってしまう。
そういう現実は罪の結果かもしれない。神から離れている結果、私達はいつもこれではいけないという気持ちを抱かされているのかもしれない。

イエス・キリストの招きに応えて集まった私達は、求めるものがあって来たわけで、その求めることがどれだけ満たされているかは人によって違うでしょうけれど、求める側から与える側にもならないといけないので、教会としてはどんな人にも、疲れている者、重荷を負う者にどうぞ来てくださいと…。

でも、来てもらって、その人たちの思いにどれだけ応えられるかというと、また別な事になるのかもしれない。

この教えの福音の箇所は何度も出会っているわけです。

「わたしの軛(くびき)を負いなさい」という言葉ですが、「軛」というものを見たことがありますか。
現在の東京の生活では「軛」を見ることはないと思う。
戦前なら見られたかもしれない。
私の記憶では子供の頃、私の家の近くに馬車屋さん、馬車を曳いて荷物を運ぶことを仕事としている家があって、駅から毎日荷物を運んでいました。

馬が繋がれて、馬についた車に荷物を載せて荷物を運ぶんですね。
そのために、馬の首のところに「軛」というものを装着するわけです。
その「軛」は車の両脇の轅(ながえ)の部分に繋がっているわけです。
絵で見た方が分かり易いですね。
多分都会の人は見たことがないと思います。
東京でも戦前は埼玉辺りから馬車が来て、いろんな物を運んだかもしれないですが。

その軛ですが、「わたしの軛を負いなさい」とイエスは言うわけです。

それは何を意味しているのであろうか。
大工であったらしいナザレのイエスは軛作りの名人だったという伝説が残っているそうで、
ピタッとその馬に合う軛を作ってくれたそうです。

勿論、このきょうの話はたとえです。
私達にも軛は課せられているのですね。

その軛とは何でしょうか。あなたの軛は何でしょうか。
これをきょうは考えたら良いかもしれません。

ミサをあげることが難しい状況になって、いつから以前の状態に戻ることができるのか。
ちょうど四旬節の始まりと一緒にコロナウイルスの感染の問題が始まって、教会の活動が制限され、ほとんど停止といってもよい状態ですが、やっと少しずつ段階的に再開しようということで、次の日曜日、主日のミサは制限付きの公開ミサとなるということですね。

この一、二カ月、どうやって過ごして来たかというと、私は自分の問題、自分の病気のことで悩んできましたが、私が大変お世話になった二人のイエズス会の神父様が亡くなりました。

アドルフォ・ニコラス神父様、5月20日、84歳。

私が神学生の時に、神学、私達の場合は終末論という神学を教えてくださいました。
日本管区長、そして世界全体の総長になり、終わって日本に戻り日本でお亡くなりになりました。

もうお一人、ペトロ・ネメシェギ神父様
つい最近、6月13日、97歳、老衰で帰天されました。ハンガリーのブタペスト。
日本で長く神学を教えてくださいました。
沢山の日本語の著書があります。
東ヨーロッパの社会主義、共産主義の政権が自由化されて教会の活動ができるようになったからでしょう、ハンガリー出身のネメシェギ神父様はハンガリーにお帰りになり、そこで約20年最後の司祭の奉仕をされました。

ニコラス神父、ネメシェギ神父、二人ともイエスの言葉に従って生きた人だと思います。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

私達の教会はイエスと同じようにはできないし、していませんが、できるかぎりこのイエスの言葉に見習って、安らぎ・癒しを与えるというよりも、仲介し・伝えたい。

復活されたイエス・キリストの恵みを人びとに分かち合うことができるように準備し、与しなければならないと思います。

「み心」という言葉は、いまは平仮名の「み」に「心」となっていますが、わたくしの時代は「聖心」と書いて、聖心という名前の修道会や学校施設がたくさんできたわけです。

ご存知の通り、東京にも聖心女子大等聖心の名がつく修道会や団体があるわけで、「聖心の信心」というものが普及して、いま、ちょっと下火になっているかもしれないけれど、一人の修道女聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れたイエスの言葉に基づいて始まった信心だと言われている。

イエスは人びとの忘恩、冒瀆、無関心を嘆かれたということがマルガリタ・マリア・アラコックを通して伝えられています。

特にご聖体に対する不敬、ご聖体を軽んじていることが悲しいと言われたと伝えられています。

人となられた神であるナザレのイエスの生き方、生涯全体をあらわす聖体の秘跡を大切し、訪問する、そしてイエスがその生涯に亘って命をかけて伝えてくださったことが何であるかということを、日々、心に深く刻みたいと思うのであります。

 

第一朗読:申命記(申命記7・6-11)

(モーセは民に言った。)あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。

第二朗読:ヨハネの手紙 一(一ヨハネ4・7-16)

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

福音朗読:マタイによる福音書(マタイ11・25-30)

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」