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2020年06月14日
2020年6月14日(日)
今日は、キリストの聖体の祭日です。主イエスは、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を受ける」(ヨハネ6.54)
と言われました。このイエスの言葉にユダヤ人は躓きました。ユダヤ人は「どうして、この人の肉を食べたり、血を飲んだりすることができるのだろう。冗談じゃない」と考え、弟子たちさえも「一体、何をおっしゃっているのだろう。分からない」と思い、多くの弟子たちは、「もう、ついて行けない」と、イエスから離れて行ったのでした。
この前の日曜日の福音は、三位一体の主日の福音でした。
「神はこの世を愛し、わたしたち人間を愛し、ご自分の命に与るよう招いておられる。そのために愛する独り子、イエスをお遣わしになった。それはイエスを信じる者が、みな、永遠の命に至るためであった。」
そのような内容の福音でした。今日は、その続きです。神様は、すべての人を、ご自分の「いのち」に招き、ご自分の幸せに与らせたいと望んでいます。
ただ、その神様のお気持ちを知り、そして、それを受け入れ、感謝しなければ、人は、神の「いのち」に与ることができません。神はこの神の愛を信じてもらうためにナザレのイエスという人を遣わし、人々に、神の国の福音を説き、更に、イエスがご自分の体を十字架につけられること、十字架の上で、御血を流すことさえ、拒まれませんでした。
弟子たちは、後になって、このイエスの言葉の意味を悟ります。今日、キリストの聖体の日です。ご聖体をわたしたちは信じ、ご聖体拝領をいたします。ご聖体は、ミサの中で、司祭によって聖別される。司祭の唱える聖体制定の言葉も、司祭は必ずこの言葉を唱え、みなさまは必ずその言葉を聞き、そして、その後、司祭が「信仰の神秘」と言います。
司祭ははっきりと、
「これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである。」
と言います。《イエスのからだ》、それは、あなたがた、つまり、わたしたちのために、十字架につけられる体です。
「皆、これを受けて飲みなさい。これは、わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」
この言葉の中に、わたしたちの信仰の中心が凝縮されています。
イエスが十字架にかかり、そして、血を流されたのは、わたしたちの罪の赦しのためです。わたしたちは、罪の赦しをいただきます。罪の赦しをいただくわたしたちは、心からの感謝を献げましょう。
神様は、わたしたちをご自分の「いのち」に招く。しかし、わたしたちは、どんなに頑張っても、神様のみ心に適う、満足していただけるような人間になることができません。そのような自分でも、神様は、赦し、受け入れてくださっている。そして、わたしたちに聖霊を注ぎ、永遠の「いのち」を与えてくださっています。この信仰を確かめ深めてまいりましょう。
第一朗読:申命記(申命記8・2-3、14b-16a)
(モーセは民に言った。)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。
第二朗読:使徒パウロのコリントの信徒への手紙一(一コリント10・16-17)
(皆さん、)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
福音朗読:ヨハネによる福音書(ヨハネ6・51-58)
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」