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イエスの福音への招き「房総半島の山奥で(三位一体の主日説教修正短縮版)」

2020年06月07日

三位一体の主日ミサ説教

2020年6月7日(日)、本郷教会

 

聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日となっています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」。
この言葉は、第二朗読の中にあるパウロの言葉でありまして、ミサの開祭のときに司祭が唱える招きの言葉となっています。
ミサの開祭のときに、私達は「父と子と聖霊」の三位一体の神への信仰を告白しているのであります。
きょうのヨハネによる福音の三章ですが、非常に良く知られている箇所であります。
イエスとニコデモとの対話の続きの箇所で、キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

私の個人的な思い出ですが、第二次世界大戦の敗戦直後、アジア太平洋戦争の終わったすぐ後の頃だと思いますが、故郷の房総半島の山奥で福音宣教のラジオの番組が放送されておりました。
「ルーテル・アワー」という名前の番組でありまして、その放送の時に繰り返し伝えられていた福音者の言葉、聖句がきょうの福音の言葉であります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この言葉が繰り返し告げられていたのであります。

第一朗読におきましては、シナイ山でモーセにあらわれた神がご自分のことを啓示して言われました。
モーセにあらわれた神はいつくしみ深い神である。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者。」であると主なる神はご自身を啓示されました。

フランシスコ教皇が、即位されてまもなく『いつくしみの特別聖年』を制定されたことは、まだ私達の記憶に新しいところです。
神のいつくしみは、御独り子(おんひとりご)イエス・キリストにおいて、イエス・キリストの派遣、その生涯によって完全にあらわされたのであります。
御父は、独り子主イエスを世にお遣わしになり、私達と同じ人間とされ、御子が十字架に架けられるという苦しみを耐え忍ばれました。
それは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて永遠のいのちに至るためであります。

私達キリスト教信者の使命は、洗礼を受け、堅信の秘跡を受けました時に告げられておりますが、「父と子と聖霊」の神さまへの信仰を、自分の言葉で自分の生活であらわし伝えていくということであります。
それは福音宣教、福音化という言葉であらわすことができるでしょう。
私達は、自分が信じていることを自分の言葉で言いあらわし、自分の生活の中で実行しなければなりません。
言葉と実行が一致しない人の言葉は力がなく、信じてもらうのは難しいと思います。
信じている「神の愛」を生活の中で実行するならば、多くの人は、そこに本当に「神の愛」があることを信じ、そして、自分も信じてみたいと考えるようになるかと思います。
聖霊の恵みを祈り求め、私達は生活の中で「神の愛」を生きることができますように祈りましょう。

 

第一朗読:出エジプト記(出エジプト34・4b-6、8-9)

(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

第二朗読:コリントの信徒への手紙二(二コリント13・11-13)

兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読:ヨハネによる福音書(ヨハネ3・16-18)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。