カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「キリストの弟子は世に憎まれる」
2020年05月16日
2020年5月16日(土)
「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。」
キリストの弟子は世に属していない。キリストの弟子たちはその主人のように世から憎まれる。
事実、初代教会、弟子たちは迫害された。日本での多くの殉教者を輩出した。
ヨハネの手紙一は言う。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(一ヨハネ2・15-16)
「肉の欲、目の欲、生活のおごり」とは何だろうか。単に性的な欲望を指すのではない。神の霊に反する諸々の在り方、乱れた欲望の動きを指しているのだろう。ガラテヤ書は「肉の業」と呼んでいる。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前、言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、謙譲、誠実、柔和、節制、貞潔です。」これらを禁じる掟はありません。」5・19-23)
紀元313年という年が重要である。この年、キリスト教はローマ帝国で公認された。公認から国教化への道はそれほどの年月を要しない。
キリスト教は支配者の宗教とされて「世と世にあるもの」に密着する団体となる危険を帯びるようになった。
その問題は現在も存続している。
「世に在って世に属さないキリスト者」という課題を我々は生涯背負うことになっている。
第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録16・1-10)
(そのころ、)パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
福音朗読:ヨハネによる福音書(ヨハネ15・18-21)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。