カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「実を結ぶ」
2020年05月13日
2020年5月14日(木)
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
「わたしがあなたがたを選んだ。」
何度も聞いたイエスの言葉。わたしにそれだけの価値があったからだろうか。
人間的に言って、とてもそうは思えない。わたしより優れた人―人柄も、能力も、健康も、環境的にも…、たくさんいるのに。
このわたしに何が出来るのだろうか。「出かけて行って実を結び、その実が残るように。」
どんな実りがありますか。
その人固有の役割、使命がある。余人をもって代えがたし、という仕事・位置・存在がある。それが見えないとしたら寂しい。
使徒マティアは使徒ユダの後継者として選ばれた。ユダは、なぜ自殺したのか。自分固有の役割が見えなくなったのだろうか。
画一的な仕事と役割を振り向けられ、個性の働く余地が極小のいまの社会。何事もマニュアルによって動かされているいまの社員・職員・構成員たち。自分らしさをどこで発揮できるだろうか。
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエスの名によって願うということが大切である。何を願いましょうか。
日々願う祈りの中に、自分の召命を全うできますようにと祈ることが肝要である。
第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録1・15-17、20-26)
(その日、)ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』
また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。
「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。
福音朗読:ヨハネによる福音書(ヨハネ15・9-17)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」