カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「召命のために」
2020年05月02日
2020年5月3日(日)
第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・14a、36-41)
第二朗読:使徒ペトロの手紙一(一ペトロ・2・20b-25)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・1-10)
「召命のために祈る」
世界召命祈願の日です。召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。
みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。
彼らは、自分の弱さということを自覚していく。
自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。
その点については、司教も同じ想いです。
司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、
「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み…いま、わたしにもこの人達を必要な助け手としてお与えください」と祈ります。
そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。
既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。
呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできない、と断ったり、躊躇したりしています。
例えば、モーセは、「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。…全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです(出エジプト4・10)から、とてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1・6)、どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう」と言っています。
イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。
その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」を、つくづく思い、必要な助けを祈り求め、さらに、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は、約束してくださいます。
「わたしがいつもあなたと共にいて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。
さて、きょうは、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。きょう、さらに、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべての人に与えられている、神様の呼びかけです。神様は、
「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。
その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。
それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。
「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、さらに耳を傾け、
「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特にきょうではないかと思います。
神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。
「これをしませんか、してくれませんか。」
「はい、喜んでいたします。」、その答えを求めています。
どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。
第一朗読:使徒言行録2:14a、36-41
(五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
第二朗読:ペトロの手紙一2:20b-25
(愛する皆さん、)善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
福音朗読:ヨハネによる福音書10:1-10
(そのとき、イエスは言われた。)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
主なる神よ、
司祭職を志す人々には 堅固な意志を、
あなたが選ばれた司祭たちには 尊い使命を全うする恵みを お与えください。
父である神よ、
人々を霊的に教え導く司祭たちには、主の霊によく従う恵みを
高齢の司祭たちには、この世にあって やすらぎと 希望のしるしとなる恵みを お与えください。
いつくしみ深い主よ、
司祭を奉献する すべての家族を顧み、聖霊の慰めと勇気、そして、主への信頼をお与えください。
司祭と召命のために 祈りと犠牲を献げるすべての人を あなたが 豊かに祝福してくださいますように。
あなたの恵みの分配者としての使命を お委ねになった すべての司祭が、神と人に忠実に使え、世を潤す 救いの道具となることができるよう 彼らを教え導いてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって アーメン。
(2002年4月27日、前東京大司教 ペトロ岡田武夫 認可)