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イエスの福音への招き「マナ」

2020年04月28日

復活節第三火曜日

2020年4月28日(火)

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録:7・51~8・15)
福音朗読:ヨハネによる福音書(ヨハネ6・30-35)

 

ヨハネの福音書6章を読み継いできています。

昨日、の福音では、「神の業をおこなうためには何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、
イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。
イエスと人々との問答は上手く噛み合っていないように感じます。

きょうの30節から35節でも同じように話がうまく噛み合っていないように思われます。

「マンナ」という言葉が出てきます。マンナはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、荒れ野を40年間放浪した時に神から与えられた食べ物でありました。
こちらは「マナ」となっていますけれども、出エジプト記16章31節ではこうなっています。
「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」
そういうものを神が天からお与えになった。
このマナ、あるいはマンナは、わたしたちが今日もいただくご聖体をあらかじめ指し示すものだと考えられます。

6章の49節から51節では次のように言われています。
「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

イスラエルの民が荒れ野で命を養っていただいたパンはマンナと呼ばれていましたが、
そのマンナを食べて40年間生きたイスラエルの民も、やがては死んでしまった。
しかし、イエスが与える命のパンは、人を永遠の命へと導くものである、とイエスは言われました。
このイエスの言葉を、人々は理解することはできなかったのでした。

ヨハネの福音書6章全体が、この、イエスを信じるということと、イエスが天から降った命のパンであるということを信じる、ということに全体が割かれています。
全体が、イエスを信じること、それから、イエス自身が永遠の命を人々に与える者である、と、述べるために構成されているというように考えられます。

毎日、少しずつですけれども、ヨハネ福音書6章を読みながら、
イエス・キリストを信じるということ、それから、
ご聖体をいただくということの意味を深めていきたいと思います。

 

福音朗読:ヨハネによる福音書 6:30-35

(そのとき、群衆はイエスに)言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」