カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「日本の宣教」
2020年04月26日
2020年4月26日
第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・14、22-33)
第二朗読:使徒ペトロの手紙一(一ペトロ1・17-21)
福音朗読:ルカによる福音書(ルカ24・13-35)
エマオの弟子にキリストが現れた次第。
(4月15日・復活の水曜日の福音朗読と同じ箇所。「噛んで含めるように」をご覧ください。)
旅人の姿のイエスを二人は復活したイエス・キリストと気が付かなかったが、最後に、夕食の場面、
その人がパンを取って祝福し、パンを裂く場面において、彼らはその人が復活したイエスであることを認めた。
この物語は全体がミサの構造をしています。
さて、いま、わたしたちは、いつ、どこで、どのように復活したイエスに出会うのだろうか、
栄光と権力を帯びた、それとすぐにわかる様子では現れないようだ。
ひそかに、ありげなく目立たないようにあらわれる。信仰の目で見なければイエスは見つけられないと思われる。
旧約聖書の説明がイエスの登場には不可欠である。この日本において旧約は遠い世界である。
どうしても、丁寧に、イエスの前の時代の物語を学ぶ必要がある。
それに添えて、現代の日本の文化状況のなかで、
イエスのメッセージがどのような意味を持ちうるのか、丁寧に分かち合うことが求められている。
イスラエルの歴史と日本の文化、ナザレのイエスの生涯の意味を複合的に統合することがわたしたちの使命である。
福音朗読:ルカによる福音書 24:13-35
この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。
二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。