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イエスの福音への招き「なぜ復活したイエスが最初に会ったのがマグダラのマリアであったのか」

2020年04月14日

復活の火曜日

2020年4月13日

第一朗読:使徒言行録 2:36-41
福音朗読:ヨハネによる福音書 20:11-18

 

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前、どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。
それはどういうことであったのか、さまざまに解釈されていますが、彼女の人生において、それは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。
当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も、朝早く、墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面は、その後でのマリアの体験を伝えています。

きょうの福音では、不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。
どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアのほうは、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったので、イエスを認める心の準備が無かったから、そのために分からなかったのでしょうか。
イエスのほうが、マリアに話しかけ、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思った、とあります。そして、なお、イエスのほうが彼女の名前を呼びました。
「マリア」と言われたこの時に、マリアはその人がイエスであると分かったのでした。
彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」は、「わたしの先生」という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。
調べると「わたしに触れていてはならない」、「わたしに触れてはならない」、「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。
ラテン語で「Noli me tangere(ノリ・メ・タンゲレ)」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、
もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。
原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスのほうは「もう喜びに浸っているのはよしなさい、いまは、するべきことはほかにある。あなたがわたしに出会ったことを、他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちには、マグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味で、イエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を、他の人々に、特に、わたしたちが出会う他の人々に、何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。
それが教会の使命ではないでしょうか。

ところで、なぜ、マグダラのマリアは、復活したイエスに最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。恐らく、マリアのほうに、イエスを求め、慕う心があったから、しかも、強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。