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イエスの福音への招き「最初のミサ」

2020年04月10日

聖金曜日・主の受難

2020年4月10日、本郷教会(非公開)

第一朗読:イザヤ書(イザヤ52・13~53・12)
第二朗読:ヘブライ書(ヘブライ4・14-16;5・7-9)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ18・1~19・42)

 

今日は主イエス・キリストのご受難を特別に深く黙想するべき日です。

四つの福音書はいずれもイエスの受難を詳しく述べています。4つの福音書のなかでマルコの福音が最も古く成立した福音書であると考えられます。イエスの受難の様子は目撃者に深い印象を残しました。マルコは目撃者の証言をできるだけ忠実に書き残したと思われます。今日聖金曜日には毎年、ヨハネの福音が読まれます。四つの福音書で最後に成立したヨハネの福音では、受難に際しての毅然としたイエスの姿がうかがえます。イエスは言いました。

「わたしの国は、この世には属していない」「成し遂げられた」。

このようなイエスのことばには父である神の御心を行おうとする強い意志が感じられます。

イエスを取り巻く人々、弟子たち、総督ピラト、祭司、兵士と群集は、騒然とした状況の中で、憎悪、懐疑、嫉妬などの狂気のような感情に支配されています。イエスだけが冷静に心の均衡を保っています。この情景をみるだけでも、イエスはまことに神の子である、という印象を持つことができたことでしょう。

総督ピラトはイエスに出会って深い印象を持ったようです。ピラトはイエスに何の罪も見出せませんでした。ピラトはイエスを釈放しようとしますが群集の脅迫に屈してしまいます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」

ピラトはこの言葉を受け、保身のためにイエスをユダヤ人の手に渡してしまいます。

イエスの死はどのような意味があったのでしょうか。教会は旧約聖書のイザヤ書にその理由を見出します。イザヤは、主の僕の歌を残しました。「主の僕はわたしたちの病を担い、わたしたちの背きのために苦しみ、懲らしめをうけ、わたしたちの罪の償いを背負わされた」とイザヤは述べています。(本日の第1朗読イザヤ52・13-53・12)

第二朗読のヘブライ人への手紙では、「キリストは・・・多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられたので、自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ5・8-9)と述べています。イエスの受難はすべての人々の救いのためでした。

使徒パウロはさらに、イエスの受難は信じる者のために罪の償いの供え物であると述べています。(ローマ3・24)

イエスの受難は罪人であるわたしたちの救いのための苦しみであり、その死は償いと贖いのための死でした。

さて今日の盛式共同祈願のなかに、「神を信じない人々のための祈り」があります。日本では神を信じる人は多くはありません。できるだけ多くの人にわたしたちの信仰を伝えたいと願っています。そのためにはわたしたち自身の回心と刷新が必要です。

わたしたちは今日、つぎのように祈ります。

「人々が多くの困難の中にもあなたの慈しみを知り、神を信じる人々のよい行いを見て、唯一のまことの神、人類の父であるあなたを信じる喜びに達することができますように。」

この証しを実行できますように祈りましょう。