お知らせ

『山上の説教』より

2019年07月28日

ペトロ 岡田 武夫

主イエスは山上の説教をわたしたちに残しました。正直に言ってこの山上の説教は、わたしたちには実行が非常に難しいと思います。しかしそこで言われていることは、本当に人間がそうであるべきことであると、わたしも多くの人々もそう受け取っている。そこに隙間というか、そうであるべき状態と、そうなっていない状態の間の隔たりを人間は感じます。

実はそれは非常に大切ではないかと思うのです。別な言葉で言えば、わたしたちは神様が望んでいる状態、あるいは主イエス・キリストを通して示された要求には届いていない。多分地上にいる間は完全に届くということはないだろうと思われる。それではそういう人はまったく救われないのかというと、そうではない。自分がそのような、人間、つまり罪人であるということを知っている人こそ、神の憐(あわれ)みを受けるに価(あたい)する者であります。

イエスは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5・21-22)

刑法の殺人罪を犯す人はほとんどいないでしょう。しかし他の人のことで恨みに思ったり、あるいは憎んだり、腹を立てて、あんな奴(やつ)死んでしまえばいい、と思ったりすることはないでしょうか?

またイエスは言われました。「淫(みだ)らな思いで他人の妻を見る者は、だれでも、既(すで)に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5・28)

この教えは多くの人を悩ませましたし、今も悩ませているでしょう。姦淫(かんいん)するという行為を実行する人はあまりいないでしょう。しかし、淫らな思い、とはどのような思いを言うのか?真面目な青年はそれだけで深刻に悩むかもしれない。

新共同訳は「他人の妻」となっていますが、妻でなければ良いのかというと、そうでもない。(フランシスコ会訳では「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心のなかですでに姦淫の罪を犯したことになる」とあります。)

女性を自分の欲望の充足の対象として見るだけでその女性の尊さ・美しさを見ようとしないなら、イエスの言う「淫らな思い」をもって女性を見ることになるのではないでしょうか。*

(おかだ・たけお 東京教区名誉大司教・本郷教会小教区管理者)

 

*付記:この問題についての大変明解な説明はドミニコ会司祭・米田彰男師の名著『寅さんとイエス』(筑摩書房)に出ています。また同書に引用されている『ケセン語新約聖書』の著者・山浦玄嗣氏の解釈も非常に興味深いものです。是非お読みください。

(本郷教会発行「ケファ」309号巻頭言より)