カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「イエスの苦しみ」
2020年04月05日
2020年4月5日
第一朗読:イザヤ書(イザヤ50・4-7)
第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ27・11-54 △26-14~27・66)
今年の受難の主日は公私ともに、特別な思いで迎えました。
世界中がコロナウイルスの感染の不安と恐れに覆われています。コロナウイルスは神の怒りの現れだという言う人がいます。わたしはそうは思いませんが、しかし、これは人類にとってどんな意味があるのだろうかと考えさせられます。国境を越え体制・文化・言語を超えて同じ病気の問題で人類が苦しむ。人類の間の深いつながりを感じます。
2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。そのとき日本にいた子どものエレナさんが時の教皇ベネディクト16世に質問を送ったところ、驚いたことに、教皇はその質問に答えたのでした。質問は、
「教皇様、日本に住んでいるわたしたち子どもは非常に怖い目に合っています。どうしてですか?教皇様、神様に聞いてください」
という内容でした。教皇は答えました。
「どうしてか、わたしにもわかりません。しかし信じてください。神様は皆さんの苦しみをご存じです。世界中の人々が皆さんのために祈り心配しています。どうしてか、ということがわかる時がいつか来るでしょう。」
およそそのような内容でした。
さて、ただいまわたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。
イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。
イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。それはマタイの福音が開設しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。
イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。
イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。
「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えられます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。
イエスの死はすべての人のための死でした。この「ために」には二つの意味があると思います。まず「原因」です。わたしたちの罪が原因で、罪のゆえに苦しみを受け、死んでいった、という意味。もう一つは、「目的」。わたしたちを罪から解放するために、私たちの救いのために、という意味です。
父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。
本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2・10-11)
一人の人ナザレのイエスの死がすべての人の救いとつながっているという深い神秘を黙想いたしましょう。