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イエスの福音への招き「コロナウイルスときょうの福音」

2020年03月24日

四旬節第4主日を迎えて

3月22日、本郷教会

第一朗読:サムエル記・上(サムエル上16・1b、6-7、10-13a)
第二朗読:エフェソ書(エフェソ5・8-14)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ9・1-41△9・1,6-9、13-17、34-38)

 

今日の第2朗読に「光の子として歩みなさい」という言葉があります。洗礼を受けた者は神の子となるということであり、光を受けて、光を灯す者となります。光の子とは、イエス・キリストの光を受けて、その光を人々にあらわし、伝える者となるということです。

今、読まれたヨハネの福音。かなり長い福音でありました。生まれつき、目の見えない人がいた。どうして生まれつき目が見えないということがあるのだろうかという疑問があります。今も、時として、私たちは「どうして障害ということがあるのだろうか」という疑問を感じることがあります。

イエスの答えはどうであったか。なぜですか。なぜ、どうして生まれた時から目が見えないのでしょうか。それは、その人が罪を犯したからではない。本人ではないとすると、その人の親の罪のためですか。先祖の罪のためですか。
いまわたしたちはコロナウイルスで苦しんでいる。この病原菌はどこから来たのか。神の創造した世界にどうしてこのような病気を引き起こす原因があるのか。誰しも思うかもしれない。答えは難しい。
イエスの答えは、どちらでもありません。神のわざがこの人に現れるためである。神の技があらわれるというのは、どういうことでしょうか。イエスとこの盲人との出会いとやり取りの中で、まずイエスによって、この人は目が見えるようにしてもらえた。それが神の技があらわれたということだと思います。そしてさらに、イエスとこの盲人との対話の中で、次第に、この人の心の目が開かれていった。

わたしたちのこの肉体の目、これが見えないというのは大変なことですけれども、そればかりではなくて、心の目というものがあります。ところが、心の目が曇っていると見えるべきものが見えません。わかるべきことがわからない。そのつもりでないと、見ていても、本当のことがわからない。そういうことがありますね。心の目、あるいは霊的な目と申しましょうか。この盲人は、イエスとの出会いの中で、イエスという人に対する信仰の目が開かれました。この盲人はイエスに出会い、そしてイエスからの光をうけて、イエス・キリストを主と信じ、告白するようになりました。

ところがユダヤ人たち、ファリサイ派の人と言われている人たちは、頭から、この盲人は罪人である。なぜなら、生まれつき目が悪いということは罪の結果だ、とそう思っていたので、イエスのことをちゃんと目を開いて、イエスが誰であるかということを見ようとしない。彼らは、「自分はわかっている。神様の教えがわかっている。わかっている者であり、教える者である」と思っていますので、人から学ぶというつもりが全くない。人から学ぶということは非常に大切ですね。そして、復活なさったイエス・キリストがいろいろな人を通して、私たちに光を放ってくださっている。私たちにいろんな教えを伝えてくださるということを私たちは、この機会にもっと深く思うべきかもしれません。

今日の福音の終わりのところでイエスは言われた。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
ファリサイ派の人が「わたしは見ている。わたしはわかっている。だから教えます」と言っているところが問題だとイエスは言いました。わたしたちの教会というのはお互いに助け合い、教えあい、聞きあう、そういう神の民であると思います。すべての人に神が語り掛けている。聖霊が働いていると思います。

Peter Okada Takeo のブログより転載 http://tsurumai.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/index.html