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イエスの福音への招き「サマリアの女性イエスと出会う」

2020年03月21日

四旬節第三主日A年

2020年3月15日

第一朗読:出エジプト記 出エジプト17・3-7
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5・1-2,5-8
福音朗読:ヨハネによる福音 ヨハネ4・5-15,19b-26,39a,40-42

説教

ことしの四旬節第三主日は、世界的にコロナウィルスの感染が心配されている中で、ミサは原則として献げないようにということになっております。そういう状況の中で、きょう聴いた聖書の言葉、福音の言葉はわたしたちにどのような意味をもたらしてくれるでしょうか。
わたくしは第一朗読に、特に身につまされるような響きを受け取っています。イスラエルの人々はモーセに率いられて、エジプトを脱出し、荒れ野に到り、シナイ山から神の掟、十戒を授かりました。喜び勇んで出発したけれども途中で困難を感じている。食べるものにも事欠く、喉が渇く。次第に彼らの心の中に疑いの心が生まれ、そして強くなっていったのだと思われます。彼らはモーセに向かって不平を言った。
「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも殺すためか。」モーセは非常に悩みます。そして神に訴えると、ホレブの岩から水を湧き出させることができました。モーセがホレブで岩を打つとそこから水が出て民が飲むことができるようになりました。その場所をマサとメリバと名付けた。マサとは「試し」という意味であり、メリバとは「争い」であります。
イスラエルの人々は、「果たして主はわたしたちの間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、主を試したからである、とあります。「主は我々の間におられるのか」というこの言葉の中にイスラエルの人々の神への信頼が揺らいでいることが表されている。
福音は有名な、サマリアの女がイエスから信仰をいただいたという話であります。ご承知のようにイエスとサマリアの女の間には大きな隔たり、というか障壁がありました。ユダヤ人とサマリア人の関係、それからさらに当時の世界で一般的であった、男性と女性という関係の中に大きな障害があったのであります。きょうの話はその二つの障壁を乗り越えて、というか壊して、まことの神への礼拝に至ったという話であります。
サマリアの女は言った。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」この「サマリア人」「女」というこの言葉の中に二つの隔たりが示されている。しかしイエスはこの障害を乗り越えて、この女性をまことの神への信仰に導かれました。この二人の対話を振り返ると、女性のほうは、最初はまじめに受け取っていないようで、からかい気味のふざけたような言葉と感じられるような彼女の応答でありますが、次第に引き込まれて、そして、イエスを預言者、そしてメシアと信じるようになった次第が語られます。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とイエスは言われました。第一朗読の岩から出てきた水、そしてこのサマリアの女に言われた、イエスが与える水に共通点があると思われる。イエスが与える水、それは永遠のいのちへと導く水であり、そしておそらく、第2朗読でいわれている、信じる者に注がれる神の愛、聖霊のことを言っていると思われます。
パウロは言っております。
「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
ここで今、わたしたちは自分自身のことを思わなければならない。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々、それから、イエスに出会ったサマリアの女性、その過去の出来事を振り返りながら、今、わたしたちはあらためてわたしたちの信仰を確かめる時が来ている、と。特別な時を迎えていると考えます。なにしろ、迫害のためにミサを献げられないということはあったが、教会が自分達の判断でミサを献げないことを原則とされた日はほんとうに珍しいことであります。そして多くの人が、いろいろなことで悩み苦しみ、或いは、迷っている。そういう中で、神の愛、聖霊がわたしたちに注がれている。このパウロの言葉をもう一度受け止め直し、神の愛、聖霊に導かれて歩むことができますよう、ご一緒に祈りを献げたいと思います。