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イエスの福音への招き「灰の水曜日」

2020年02月27日

灰の水曜日(大斎・小斎)・(四旬節)

2020年2月26日(水)、本郷教会

第一朗読 ヨエル書(ヨエル2・12-18)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・20~6・2)
福音朗読 マタイによる福音 (マタイ6・1-6,16-18)

説教

2020年灰の水曜日を迎え、きょうから、わたしたちは四旬節に入ります。
「わたしに立ち返りなさい。衣ではなく、心を引き裂きなさい。」と、預言者ヨエルが言われました。
四旬節は回心の時であり、回心とは、心を裂いて、父である神のもとへ立ち返ることであります。
きょうの福音は、山上の説教の続きからとられています。
この中で、イエスは言われました。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」見てもらおうとして、善いことをすることのないようにしなさい。と、言われます。
善いことの代表、それは、施し、祈り、そして、断食などの犠牲であります。施しをする時は、人から褒められようとしてはなりません。
祈る時も、人に見てもらおうとして祈るようなことがあってはならない。
断食するときも、人に見てもらおうとして断食することのないようにしなさい。
偽善者は、神のためにすると言いながら、実は自分のために善行をしています。自分の満足のため、自分の評判を良くするため、人に自分のことを評価してもらうために善行をしているのであります。イエスは、そのような人々、まあ、多分、律法学者、ファリサイ派の人を指しているのでしょうが、偽善者を攻撃しています。
わたしたちは、その点、大丈夫でしょうか。
わたしたちの善い行いは、多少とも、やはり、人に認めてもらいたいという気持ちが混じってはいないだろうか。
それが少しでもあると、そんなことは善くないと言われますと、恥じ入るより仕方がないのですが…。
純粋に、神にささげる善行は、自分自身の評判、名誉、評価のためではないはずであります。
わたしたちは、生まれてから、両親などから教育されて、家庭でも、地域でも、学校でも、そのほかどこでも、人のために善いことをするように、と、しつけられていて、殊更、善いことをしようと考えなくても、自、自然に善いことをしていると思います。
意識しないで行われている善いことが、本当に善いことなのでありましょう。
わたしはあなたのために善いことをしてあげるよ、とか、してあげたよと言われると、言われた方は鼻白んでしまい、余計なお世話だと言いたくなるかもしれない。
わたしたちが身に着けている善行、それは非常にさりげないことで、その点、日本人は、素晴らしいしつけを受けているのではないだろうかと思うのであります。
きょうの第二朗読はパウロの言葉を伝えています。
「キリストに代わってお願いします、神と和解させていただきなさい。」
神に立ち返るということは、回心する、神と和解するということであります。
その、神への立ち返り、「回心」を促す、非常に強烈な出来事、それは、主イエス・キリストの十字架という出来事であります。
神は、罪と何の関わりも無いかたを罪となさいました。わたしたちはそのかたによって、「神の義」を得ることができたのです。
この用語、この説明は、少し難しいかもしれませんが、何の罪科(つみとが)も無いイエス・キリストが十字架に架かってくださったという出来事を深く黙想する季節、それが四旬節であり、特に、復活祭の前の一週間「聖週間」、そしてさらに特別、その前の「聖なる三日間」(聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日)の典礼であります。
より深く、よりはっきりと、イエス・キリストによる救いの出来事への感謝を持つことができるよう、四旬節を過ごして参りましょう。