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小黙想会「最初のローマの司教聖ペトロ」

2020年02月23日

聖ペトロの使徒座 ミサ

2月22日、本郷教会にて

第一朗読:使徒ペトロの第一の手紙 (一ペトロ5・1-4)
福音朗読:マタイによる福音 (マタイ16・13-19)

説教

2020年2月22日という日、間もなく「灰の水曜日」を迎えようとしている今日、わたしたちは使徒ペトロの使徒座の祝日を祝います。

イエスはペトロをはじめとする12人を選び使徒とされ、そして使徒たちにご自分の任務を引き継ぐように命じました。ペトロは12人の代表とされており、今日の福音によりますと、彼は使徒を代表してイエスに対する信仰告白を行っております。
「あなたはメシア、生ける神の子です」。
このペトロの信仰告白の上に教会が成立し、そして存続してきました。
きょうの集会祈願で私たちは祈ります。
「全能の神よ、あなたは使徒の信仰をいわおとして、教会をゆるぎないものとしてくださいました」。
この使徒たちは、決して優秀なユダヤ教の信徒ではなかった。彼らは概ね漁師などの仕事をするものであり、特別に学問を修めた者でもなかった。率直に素朴にイエスを尊敬しイエスに従ったのであります。
とくにペトロのことを思い起こしてみますと、彼は、ほんとうに率直で、そして単純な人であったと思われます。
今日のこの信仰告白、「あなたはメシア、生ける神の子です」のすぐ後で、イエスはご自分の受難のことを打ち明けますと、つまり、
「わたしは、やがて、長老、祭司、そして律法学者たちに迫害されて、そして、やがて殺されてしまうが、三日目に復活することになっている」と言われたときに、ペトロは非常に正直に反応します。
「いえ、先生、そんなこととんでもないことです。絶対にそんなことがあってはなりません」。
そのペトロに対して、イエスはなんと言われたか。
「サタンよ、退け!」
まあ、サタンというのは悪魔ということよりも、神のみ心に反対する者という意味であります。
さらに、思い起こせば、ペトロはイエスが十字架にかけられる直前、三度もイエスのことを「わたしは知らない。あの人はわたしに関係ない」と言って、しらを切ってしまった人であります。
復活したイエスがペトロに現れて「わたしの羊を僕しなさい」と三度も言われました。この三度というのは、ペトロが三度もイエスを否んだことを表していると思われるのであります。

そのような、いわば頼りない人が、どうして教会の礎となり、そして、ローマの使徒座の最初の司教となることができたのでしょうか。
それはひとえに、神が共にいてくださる、復活したイエスが、ペトロと共に歩んでくださるという私たちの信仰によるのであります。

ペトロが非常に立派な人であり、頼もしい人ではありますが、わたしたちにとっては(教会を信じることが)ちょっと難しいという気がする。
わたしたちと同じ弱い人間であり、臆病風に吹かれて、主イエスを否定してしまうような人間が教会の指導者になったということは、わたしたちに対する、まぁ、ある意味で慰めではないだろうかと。

ペトロの手紙が、きょう第一朗読で読まれました。この中の言葉で、特に気を付けるべき言葉は次の言葉ではないかと思います。
「権威を振り回してもいけません」
教会の第一人者とされたという意識は、「自分は偉いんだ。自分には何もかも許されているんだ。わたしの言うことは全部正しくて間違いがない」。
という思い込みに陥りがちであり、自分に委ねられたと考える権威、それは権限に通じる。権限を行使して、自分の満足、自分の支配のために乱用するという危険が生じるのであります。
実際、教会の歴史を見れば、最初は、貧しい人々、迫害され、そして、片隅に追いやられている人々の集いに過ぎなかったイエス・キリストの教会が、やがて多くの人が信者になるにしたがって、ローマ帝国はキリスト教を公認いたしました。313年という年。それからほどなく、さらに、キリスト教をローマ帝国の宗教と定めたのでありました。
そのところから教会の深刻な問題がはじまったのではないでしょうか。「権威を振り回してはいけません!」というこの言葉を肝に銘じて、歴代のローマの司教は謙遜に神と人に仕えなければならなかったのであります。実際に多くのローマの司教はそうしましたが、そうしなかった、そうできなかった人もいたことをわたしたちは知っている。
そこで教会の歴史の中では様々な問題が生じた。宗教改革という出来事もあったのであります。
いま現在、ペトロの使徒座はローマ教皇庁といわれている。
この教皇庁の改革ということが真剣に望まれているのであります。
ローマの使徒座は、世界中にあるそれぞれの教会の連絡の中心となっていますし、もっとそうならなければならない。お互いによく知り合うための仲介者の役割が大切であります。
そして、それぞれの地方の教会が自分たちの考えで、自分たちのやり方でイエス・キリストを述べ伝えることができるよう励まさなければならない。自分のやり方を強制してはならないのであります。
そして、もともと貧しい者の教会であったので、権力、権威、財力、そういうものから離れたできるだけ小さな存在として貧しい僕(しもべ)、イエス・キリストの姿を現すものでなければならないのであります。
現在のローマの司教、フランシスコはその教会の原点に立ち返るべく大きな努力をしていると思います。
教皇様のためにお祈りいたしましょう。