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イエスの福音への招き「召命のためのミサ」

2020年02月16日

年間第5土曜 召命のためのミサ

2020年2月15日(土)、14:00、本郷教会

第一朗読 創世記(創12・1-4a)
福音朗読 ルカによる福音(ルカ14・25-33)

説教

きょうは召命のためのミサを選びました。
「召命」というのは、神が、わたしたちを呼び出される、神がわたしたち一人ひとりに、ご自分の計画を実現するための協力を求められるという意味であります。
狭い意味では、召命といえば、従来、カトリック教会では司祭、あるいは、修道者への召し出しを意味していました。
今日、わたしたちは、召命という言葉をもっと広い意味にとり、それぞれの人が、神さまに望まれている自分の務めを果たすということを意味するようになっております。
さて、きょうの、召命のためのミサのために、第一朗読は、創世記にある、「アブラムの話」であります。
アブラムですけれども、後に、「アブラハム」という名前に変えられます。アブラハムというのは「諸民族の父」という意味であります。チグリス・ユーフラテス川のほとりに「ウル」というところがあって、紀元前1500年頃なのでしょうか、アブラハムとその一家が住んでいました。
そのアブラハムに神の声が降った。何という声であったかというと、ここにある言葉であります。
「あなたは、生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創12・1-2)
生まれ故郷を離れて、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい…、わたしの示す地というのはどこか、この時点では、はっきりしていない。
そして、そのあと、どうなるのか。
「あなたを大いなる国民に」するといっても、それは何を意味しているのかよくわからない。
人間は、特に、この時代、この地縁と血縁のつながりの中で生きている。
「地縁」(土地の地)と、それから「血縁」ですね、血のつながりの中で、人々は自分の存在を確認し、そして、そのつながりの中で日々の仕事と生活を送っております。
それを一切やめて、どこか訳の分からないところへ行くというのは、大変な冒険であります。行ってどうなるのだろうか…。
アブラハムは、その神の言葉に従って、すぐに、ふるさとと家々を離れて出発しました。
召命というのは、「神の呼びかけに応える」ということであります。そこには、リスクというものが伴う。
わからない所で、わからない人との関係の中で、これから自分の人生を新たに築いていくということは、不安と、そして、恐れを伴うものでありますが、アブラハムは、すぐに神の呼びかけに応えて、出発したのでありました。
福音朗読は、イエスが弟子たちに向かって言われた言葉を告げている。
キリストの弟子というのは、つまり、キリストに従う者であるという意味であります。
イエスは、
「わたしに、ついてきなさい。」(マコ1・17ほか)と、言われました。
ついていくというのは、どういうことであろうか、と…。
きょうの言葉は、文字通り受け取ると、とても難しい、極端な言葉のように聞こえはしないでしょうか。
まあ、アブラハムは故郷を捨て、家族を捨てて、殆ど捨てたのではなくて、家族は一緒でしたが、父の家を離れて出発した。イエスの要求は、もっと激しい。
家族ですね、血縁、父、母、きょうだい、姉妹を置いて、わたしに従いなさい。
ここでは、「それを憎まないなら」と、これが分かりにくい表現であります。キリストの弟子になるためには、自分の家族を憎まなければならないのか、そんな非常識なことをイエスは言っているのだろうか…。多くの人は、この言葉に疑問を持ち、あるいは、躓いてしまう。
イエスが言われたのは、まあ、文字通り家族を「憎む」ようにしなさい、という意味ではない。
聖書の言葉は、わたしたちが使っている日本語と全く違う言語なので、正確な意味を理解することは、優しくは無いのでありますが…。
この「憎む」というのは、いわば、自分自身の「エゴ」というか、「小さな我」、「小我」と言いましょうか、「小さな自分」、「小さな我」の思い、願い、欲望を捨てて、イエスの声に聴き従いなさい。わたしの言うことを優先しなさい、という意味であります。
そうするならば、本当の意味で、父、母、家族を愛することができる。そうでないならば、自分の小さな我欲に振り回されて、本当に家族を大切にすることにはならないのだ、と。
人間は、日々、いろいろなことを望み、欲し、そして、気にしている。そして、しばしば、自分の思い通りにはならないのであります。
「自分の十字架を背負ってついて来」なさい(ルカ14・27ほか)、これは、どういう意味でしょうか。
わたしたちは、だれでも、ああしたい、こうしたい、あるいは、ほかの人にこうしてもらいたい、そういうことはしてもらいたくない、自分の期待に反することをほかの人がするならば、あるいは、期待しないことをするならば、わたしたちの小さな自分、エゴが傷つく。十字架を背負うというのは、自分の小さな思い、「小我」を捨てて、本当の自分の姿に目覚めなさい、という意味であります。
同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない。考えてみれば、いや、考えなくても明白ですが、わたしたちはいろいろなものを持っていて、そして、持ち物を完全に支配していればよいですけれども、持ち物によって支配されているということが無いだろうかと…。
全ての物から自由になり、そして、全ての物とのふさわしい距離を持ちながら、本当の自分の声、自分の心の底の底に住んでおられる神さまの声を聴いて、それを実行するものでなければならない。
召命のためのミサを献げていますが、召命というのは、「神の呼びかけに応えること」であります。
神の呼びかけとは、いつ、どのようにして聴こえて来るのか…。自分の都合の良いような声だけでなく、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、苦しいことも神さまがお望みになっているかもしれない。
その場合、自分を捨て、自分の命、この自分の地上の命であっても、それよりも神さまがくださる命の方を大切にする。神の命を優先することが、キリストの弟子の道ではないかと思います。
きょうの福音は、そういうことを言っているのではないだろうか。