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イエスの福音への招き「自分が既に『地の塩、世の光』であること」

2020年02月10日

年間第5主日A年

2020年2月9日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ58 58・7-10
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント2・1-5
福音朗読 マタイによる福音 マタイ5・13-16

説教

きょうの福音は、マタイの5章、有名な山上の説教の一部であります。この前の箇所は、「幸い八か条」いわゆる「真福八端」という教えでありました。「心の貧しい人は幸いである」という言葉から始まっています。
きょうはその続きの箇所、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と言われました。
イエスの周りに集まった人はどんな人であったでしょうか。貧しい人々、病気の人、いろいろな問題を抱えている人、社会の中で片隅に追いやられているような人々でありました。そういう人々に向かってイエスは あなたがたは祝福されている。「幸いです」というのは祝福されているという意味であります。

そしてきょうの箇所は、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われたのであります。
地の塩でありなさい、世の光でありなさい、と言われたのだろうかと思うと、いや、そうではない。
あなたがたが、地の塩、世の光であるのです。そういわれたのであります。

この言葉をどう受け取ったらよいでしょうか。
どちらかといえば、或いははっきりいえば、自分のことに自信がない、疲れ切っている人、元気のない人々が、イエスの周りに集まってきたのであります。
人々の羨むような、模範になるような状態にはない、そういう自覚を持っていた人々ではないでしょうか。
頑張った、けれどもうまくいかなかったという人々、であるかもしれない。
そういう人に向かって、もっと頑張って、人々から模範と思われるような人になりなさい、とイエスが言われたのであろうかというと、そうではない。
しかし、他方、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」とも言われているわけです。

論理的にこういうことになりますね。
あなたがたは地の塩です。そしてあなたがたは世の光です。その光を人々の前に輝かしなさい。
そうすると、自分ではだめだと自分のことを思っているかもしれないが、そうではないのですよ。
あなたがたは既に、今、そのままで、地の塩、世の光になっているのです。そのことを深く思いなさい、自覚しなさい。そして、その自覚を持って、人々にキリスト者、ここではキリスト者とまだなっていないのですけれど、人々の前に光を輝かせなさい、地の塩として生きなさい、そういっているのではないだろうかと。
まだ地の塩でない、世の光でない人に向かって、頑張って、地の塩、世の光になりなさいと言われているならば、理論に整合性があるのですけれど、もう地の塩だよ、世の光だよ、と言いながら、光を輝かせなさい、というとどういうことになるのかと思いませんでしょうか。

イエス自身、「わたしは世の光である」とも言われています。
イエスのきょうの教えはわたしたち全ての人間に当てはまることではないだろうか。
わたしたちは、誰でも地の塩、世の光になっている。しかしそういう自覚がどれだけあるでしょうか。「こんなわたし、とてもとてもそんな風には思えないし、思ってもらえない」という思いが勝っているのか、それとも、「わたしを見なさいよ、みんなわたしのようにすればいいんだよ」と胸を張って言えるでしょうか、まぁ、たぶん、両方の極端、自分はだめだと落ち込んでいる状態、とほかの連中は皆だめだなぁ、俺のようにすればいいんだよ、と高ぶった思いとの、どちらかになっている人はおそらくいないだろうと思う。正直なところ、わたしたちは、自分に自信が持てない、しかし、自信を持てる部分もある。そしてお互いに他の人をみると、あの人はこういうところが素晴らしいなぁとか、美しいなぁとか、そう思うことがあるのではないでしょうか。
たしか使徒パウロの言葉に、「お互いに相手を自分よりも優れたものと思いなさい」という言葉がございます。

話は前後するのですけれども、わたしたち人間は、神から造られたわけです。神の似姿、神に似たものとして造られました。世界の歴史の中で、宗教家とか哲学者が、人間とは何かということをずっと論じてきているのですが、大きく分けて性善説と性悪説というのがあります。
人間は本来、善である。或いは、本来、悪である。その両方の間を揺れ動いているのかもしれない。

我々キリスト教は人間というものをどう見ているのだろうか。
きょうの山上の説教はそのことに深く関わっているのであります。イエスの周りに集まった、惨めな状態にある人に向かって、「あなたがたは、地の塩、世の光である」と言われたということは、これはどう考えても性善説であります。しかしわたしたちは自分の中に、思わしくない点とか、自分でも嫌になる点とか、そういう部分があることを知っている。真っ白でもないし、真っ黒でもないわけであります。とはいえ、話が右左(みぎひだり)に動くんですけれども、基本的にわたしたちは神の子である。神から出たものですから、限りなく善いお方、慈しみ深い方の子どもでありますので、わたしたちの中に神の性質が宿っている。まして洗礼を受け、聖霊を受けて神の子となったわたしたち、そして復活の栄光に与っているわたしたちは、イエス・キリストの、いわば兄弟になっているのであります。その自覚を深めること、自分に、正しい意味で、誇りを持たなければならないと思う。ま、人にそう言っているわたくしが自分にいつもそう言い聞かせているのであります。

仏教で、仏性(ぶっしょう)、仏の性質、仏性ということを言うそうであります。すべての人には仏である性質が既に備わっているのだという教えであるようです。わたしたちは皆、神の子であり、神はわたしたちひとり一人を自分の子どもとして、かけがえのない価値を与えて下さっているのであります。
その自覚を強めることによって、わたしたちはおのずから神から与えられる光を人々に伝えることができる。光は神から与えられて、わたしたちの中に既に宿っているのであります。その光、自分の中にある光、或いは塩味を深く自覚し、そしてそういう者として、毎日を歩むことが大切ではないでしょうか。