カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「試練と誘惑」
2020年02月02日
2020年2月2日、本郷教会
第一朗読 マラキの預言 マラキ 3・1-4
第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 2・14-18
福音朗読 ルカによる福音 ルカ2・32
きょう2月2日は、主の降誕の日からちょうど40日目にあたり、主の奉献の祝日とされています。イエスの両親、ヨセフとマリアは律法の規定に従って、幼子イエスを連れてエルサレムの神殿に詣で、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽とともにイエスを主なる神に献げたのでありました。
神殿に連れて来られた幼子イエスを見た二人の老人、シメオンとアンナは、第一朗読マラキの預言の成就、即ち、待望している主が聖所に現れる、という預言の成就を見たのであります。主の奉献の日、わたしたちは、主の神殿で主に献げられたイエスを、生涯忠実に、主の僕(しもべ)としての生涯を貫いた人として、全ての人の救いの源であると信じています。
第2朗読はヘブライ書であります。ヘブライ書で描かれているイエスについて、きょうはわたしたちの思いを向けて、少々黙想してみたいと思います。
ヘブライ書が強調しておりますが、イエスは「罪」という点を除いて、わたしたちと全く同じ人間でありました。人間であるということは、わたしたちと同じ人間としての弱さ、或いは限界を持っていた存在であります。イエスはわたしたちと同じように、悲しむこと、苦しむことのできる人間でありました。実際、ナザレのイエスは、わたしたちと同じ人間として、苦しみと試練をつぶさに体験したのであります。
さらに、イエスは悪へのいざないも体験しました。四旬節の起源となっている荒れ野における40日間の、悪霊からの誘惑の体験を思い起こしてみたいと思います。彼は40日間にわたって荒れ野において、悪霊からのいざないを受け、そしてその誘惑に打ち勝ったのでありました。
さらにゲッセマネの園におけるイエスの祈りを思い起しましょう。イエスは死を目前として祈って言われました。
「父よ、できることならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の願い通りではなく、み心のままに。」
この祈りとともにイエスは人間として、死ぬほどの恐怖を感じていたにもかかわらず、その恐怖に打ち勝ち、十字架の刑が待っている次の段階へと進んで行ったのであります。
わたしたちは、イエス・キリストという人を信じています。
そのイエス・キリストとは誰であるのか、どんな人であったのか。
この問いがわたしたちにとって重要な問いかけであります。
もしイエスが、「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神である」とすれば、すれば、じゃなくてそう信じているわけですが、その人がどうしてわたしたちと同じ弱い人間であり、そしてさらに、悪霊の誘惑を受けることができたのでしょうか。ここに、わたしたちには伺い知ることのできない深い神秘が隠されているのであります。
わたしたちは、弱い人間でありますし、数々の困難に出遭っていますし、そして誘惑を受けている者であります。
「主の祈り」の中でわたしたちは祈る。
「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」
イエスも誘惑を受けたのでしょうか。イエスが苦しんだことは疑いがありません。しかしイエスはわたしたちと同じように誘惑を受けたのでありましょうか。この点について、最初の教会の中で議論がありましたが、結論は、イエスはわたしたちと同じ人間になったので、誘惑を受けた。荒れ野において40日間、悪魔の誘惑を受けたのであります。そして誘惑に打ち勝った、そして罪を犯すことがなかった。わたしたちの場合、誘惑を受けると場合によっては誘惑に負けて罪に陥ってしまう。
ですから、「誘惑に陥らせず悪からお救いください」と祈るのであります。
「誘惑」という言葉ですが、似たような言葉で「試練」という言葉があります。原文は同じで、その原文を文脈、その文章の流れ中で「誘惑」あるいは、「試練」と訳したりしています。
試練と誘惑は違います。どう違うのか、考えてみるとそう簡単に説明ができない。神はわたしたちに試練を与えている、これは動かすことのできない事実ですね。しかし、神が人間を誘惑することはない。これも動かすことのできない真理であります。
誘惑するものがある。それを、わたしたちは悪魔とか悪霊とか呼んでいます。
神は人間を誘惑することはない。誘惑するような神は神ではないと言わなければならない。しかし、困難に遭わせていることも否定できないのではないでしょうか。数々の困難にわたしたちが出遭うことを、神は、謂わば、許しているというか、黙認していると言えましょう。
神は、わたしたちを試練に遭わせて、わたしたちを教育するということはあり得ます。しかし、罪に誘うことはあり得ません。誘惑は乱れた欲望の動きに同意するようそそのかす悪霊から来るのであります。
悪魔がわたしたちの欲望に働きかけて、悪を行うよう、誘惑するのであります。その誘惑に同意すると、罪に陥るということになります。
ですから、わたしたちは「主の祈り」で悪からお救いくださいと祈っていますが、この「悪」と訳されている原文は「悪いもの」といいう意味であり、この「悪いもの」とは「悪魔」、「悪霊」と訳すことも可能であります。
神は、悪魔が人を誘惑することを、今のところですね、許している。これはわかりにくいことですけれども、まあ、悪魔の存在そのものがわかりにくい事ではあります。
しかし、悪魔に打ち勝つ聖なる霊、「聖霊」をわたしたちに与えてくださっている。「聖霊」を豊かに注いでくださっているのであります。
イエスは誘惑に打ち勝ち、復活の栄光に入り、わたしたちに聖霊を注いでくださっています。
わたしたちの教会の最高指導者、教皇フランシスコは、繰り返しわたしたちに励ましを送っています。
「信者の毎日は、悪とのたたかい。悪霊の誘いを退けるためのたたかいであります。聖霊の恵みに信頼し悪に打ち勝つようにいたしましょう。」