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イエスの福音への招き「わたしについてきなさい」

2020年01月27日

年間第3主日A年

2020年1月26日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ8:23b-9:3)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙一(①コリント1:10-13、17)
福音朗読 マタイによる福音書(マタイ4:12-23)

説教

主イエスは、漁師であったペトロとその兄弟アンデレをお召しになり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われました。
「わたしについて来なさい。」と言われたのであります。ペトロとアンデレはすぐにイエスに従いました。ペトロはご承知のように、十二人の使徒の頭(かしら)となり、最初のローマの司教とされてわたしたちカトリック教会の頭となった方です。

コリントの教会への手紙の朗読を聞きました。パウロが創立した教会であります。このコリントの教会には、仲間争い、分派、対立という問題が生じていたことが、きょうの朗読で告げられています。教会は、同じイエス・キリストを信じる神の民でありますが、時としてお互いに攻撃したり、排斥したりするということが起こりましたし、現在もある程度起こっているかもしれない。
昨日は、使徒パウロの回心の日でありました。使徒パウロ、使徒ペトロはわたしたちの教会の創立に大きな役割を果たしました。歴史の発展の中で、いろいろな事情からキリストの教会はいくつかの教派、教団に分かれてしまっています。そういう現状の中で、イエス・キリストにおいて、もっとひとつになろうという運動が起こってきました。教会一致運動であります。
1517年、今から503年前になりますが、ルーテルというアウグスチノ会の修道者が、結果的に宗教改革を開始しました。500年の間、対立、分裂が続いておりますが、第二バチカン公会議、62年から65年に開催されたこの会議においてわたしたちカトリック教会は対話をするという方向に転じたのであります。人の話をよく聴こうという姿勢になりました。そして50年の間、耳を傾けてみると、意外なことがわかってきた。両方の教会の教えは基本的に同じである。強調点、或いは表現の違いはあるが、基本的には同じように主イエス・キリストを理解し、受け取っているのであるということがわかりました。
キリスト教徒の間でも意見の違いがあっても、同じイエス・キリストを信じており、そして同じ聖書を正典として学んでおります。お互いの違いに注目するよりも、同じ信仰理解をもっと大切にするほうが、イエス・キリストのみ心にかなうことであります。この考え方をさらに広げますと、ほかの宗教の人々にも同じ態度をとらなければならないということになります。これも第二バチカン公会議の教えですが、ほかの宗教の教えから学びましょうという運動が、諸宗教対話ということであります。世界中の教会で、この諸宗教対話が勧められており、日本の教会でも司教協議会、司教たちの協力する機関、において、諸宗教対話部門が設置され、定期的にほかの宗教の方と対話するようにしております。わたくしも担当しておりました。

わたくしの心に残っている仏教の教えをひとつ、紹介したいと思います。
わたしたち宗教者はどんな宗教であれ、平和のために働かなければならない。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。
どこかで聞いた言葉だと思いませんか。「ユネスコ憲章」の言葉であります。
人の心の中に平和を妨げるものがある。それはなんであるのか。
仏教では「三毒」ということをいうそうであります。
「三毒」は三つの毒、ということで、難しい漢字ですけれども、「貪(とん) 瞋(じん) 癡(ち)」 といいます。
貪(とん)というのは貪欲のどん、で、むさぼるということ。「瞋」(じん)いうのも難しい字ですけれども、こうこう。 嫉み(ねたみ)、そねみ、怨み、いかる、憤るということですね。」
癡(ち)っていうのは病ダレの中に疑いという字を入れた字なんですけれども
認知症の痴とちょっと違って、中が疑うという字なんですけれども、これは、無明(むみょう)、無知という意味だそうです。無明というのは、光がない。きょうの第一朗読では、光ということが出てきますが、
光がない、というのは無知であるということです。真実を知ろうとしない、相手の立場に立って、相手のことを知ろうとしない。自分の本当の姿を見ようとしない。これは大変耳に痛い言葉ですね。
程度の差こそあれ、人間はこの三つの毒に侵されてと、仏教で教えているそうです。「貪瞋癡」
そこで、修行とは この「貪瞋癡」から解放されることであり、人の為に尽くす修行をすること。
それはとりもなおさず慈悲の行いに励む、ということであります。

慈悲といえば、フランシスコ教皇は、就任してすぐだったと思いますが、「慈しみの特別聖年」を宣言されました。
「わたしたちの神は慈しみ深い方であるから、あなたがたも慈しみ深いものとなりなさい」と言われます。そして慈しみ深くあるということはどういうことであるかというと、非常に具体的にお話になりました。

「飢えている人に食べ物を、渇いている人に飲み物を、裸の人に着るものを、泊まるところがない人に宿を、病気の人をお見舞いし、牢に繋がれている人を訪ねる。そして最後に亡くなった人に尽くす。死者を大切にする。」ということであります。

で、さらに、精神的な慈悲の行いが勧められています。
「疑いを持っている人に助言する。」
「無知な人に教える。」
「間違いを犯している人を戒める。」
「悲しんでいる人を慰める。」
「いろいろな侮辱をゆるす。」
「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶ。」だそうです。

きょうの福音は、漁師であったペトロ、アンデレ、そして、ヤコブとヨハネを、イエスがお呼びになると、彼らはすぐさま、全てを捨てて従われました。「わたしについて来なさい。」と言われた。イエスが「ちょっと来て、わたしの説教をきいて、よく考えて、良ければ来なさい」と言ったのではなくて、「わたしについて来なさい」 それで終わり。ものごとがそのように行くと大変よろしいのですけれども、わたしたちの場合はなかなかそうは行かなかったのでありますが、考えてみると、結局、根本的な決断、それはだれかに出会ったときにその人について行くかどうかということであり、わたしたちの場合は、誰かを通して示されたイエス・キリストに、ついて行こう、途中でわからなくなったり、疑わしくなったり、疲れたりしても、それでも最後までついて行こう。
「わたしについて来なさい。」その声をもう一度心にこだまさせる必要があると思います。