カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > 典礼小講話 その4
2020年01月25日
2019.11.10 本郷教会 ペトロ聖堂
10月は福音宣教の特別月間ということで、フランシスコ教皇の『福音の喜び』という文書のさわりをお話ししました。第三回はどんなことをお話ししたかといいますと、手元にあると思いますが、「典礼の暦」、それから「聖書の朗読配分」などについてお話ししたと思います。我々は、今、一年周期でイエス・キリストの生涯の記念を行っています。福音書の朗読につきましては、共観福音書が三つありますので、マタイの年、マルコの年、ルカの年、としてA年、B年、C年に分けて3年周期でイエスの生涯を学ぶということになっております。それから、「聖務日課」と言うお祈りがあって、日本の教会では「教会の祈り」と言っていますが、毎日朝昼晩、夜、定められたお祈りを共にささげることが推奨されています。しかし、皆さん、信徒の場合日常の仕事やお仕事があるので、決められた場所、決められた時間に集まってお祈りするということは困難でありますが、まあ、できる範囲で毎日のお祈りをしましょう、ということであります。
今日は、今までお話したことで、もう少しはっきり申し上げたいと思う事がいくつかありますので、補足をしたい。典礼の中で一番重要なものは言うまでもないですが、「ミサ」であります。「感謝の祭儀」とも言います。ミサの前半は「聖書の朗読」であります。主日、祭日では、朗読は3回行われます。本来、昔から、朗読というのは、聴いて味わうものでありました。今、皆さんお手元に聖書のテキストを持っていますので、ついそれを目で読んでしまうんですけれども、できるだけ耳で聴いて、味わって頂きたい。そのためには、朗読聖書の文章が聴いてわかるような表現になっていないといけないわけなんですが、それがどうなのか、ということは問題になっています。聖書と言う特別な場所、特別な文化で成立したものですから聴いただけではよくわからない、そういう表現が多々ございます。それを補足するために「聖書と典礼」と言う大変便利な有益な冊子がありますが、便利なものがあると、つい見てしまう、ということになりかねない。それから、朗読する人の朗読の仕方も聴いてわかるかどうかという事に影響しているわけで、なんか今日はマイクロホンの具合が悪かったかなんかで、わたしもあまりよく聞き取れなかったんですけど、ちょっと、電池がなかったかなんか、物理的な問題もあります。まあ、この教会はそれほど聖堂が広いわけではないので、ゆっくりはっきり読んで頂ければ会衆には通るはずであります。朗読は「ゆっくりはっきり」読んでください。
それから、聖歌のほうは、どうしてか間延びしてしまうので、しっかり、歯切れよく歌うようにしたいと思います。その為には、かなり聖歌になじんでいないと、初めて聞く聖歌、見る聖歌、をしっかり歌うというのは難しいかもしれません。それで、聖歌の場合、全員で歌う部分と、それから特定の人だけが他の人のために独唱するために、歌う部分をわけることも可能であるし、会衆が多い場合には、そうした方がいいかもしれない。特に答唱詩編の場合、全員が唱えるのは答唱で、詩篇の本文は特定の人、一人あるいは複数の人が他の人のために歌う、あるいは唱えるという方法もありうるわけでして、今のところ全員で歌うようにしていますが、そういう準備ができれば答唱は全員で、本文は特定の人にお願いする、ということもよいのではないかと思っております。
信仰宣言は、色んな種類の信仰宣言があるんですね。「クレド」は、「わたしは信じます」と言う意味ですけれども、公会議までは1種類のクレドしか唱えなかった、ニケアコンスタンチノープル信条しか唱えなかったと思いますが、公会議の後、色々な信条を唱えるようになり、日本の教会は洗礼を受ける時に唱えた一番簡潔な信条を主日に唱えるようにしたら、他の信条が忘れられてしまいそうになったので、司教協議会としては使徒信条とニケアの信条の二つのどちらかを唱えるように、というように、決め直したわけなんですね。でも、どうしても短い方を事選ぶことが多いので、時々ニケアの信条を唱えないと忘れられてしまうなあとは思っております。
共同祈願につきましては、これは本来その共同体が聖書の言葉に応えて、聖書の言葉についての司式司祭の説明に応えて、自分たちの信仰を自分たちの言葉で表現するお祈りであるわけなんですね。ですから、前に準備するのは難しいんですけれども、これが『聖書と典礼』で共同祈願に「例文」って書いてありますけれども、よくできているので、この例文をだいたい皆、使ってしまう。最後に一つだけそれぞれの共同体の意向というところがありますけれども、できたら本郷教会として、もう少し共同祈願の準備に力を入れることはできないかと思う。なお、共同祈願の4項目につきましては一応原則が、ミサの総則で指定されて述べられています。1は教会全体、世界に広がる教会全体の願いを献げる。それから教会が置かれている社会、世界の問題についての願いを献げるのが2番目、3番目は困難な状況にある人を助けて下さるようにという願いを献げましょうと。4が、そのミサを献げる共同体固有の、その共同体が特にお願いしたいことを祈りましょう、とそういう風になっておりますので、まあ、4はもうそれを実行していただけているんですね、まあ、できたら1,2,3、についても、え~・・・まあ今どういうことがありましょうかね・・・日本の社会の現状、それから教皇様が日本にいらっしゃる、というようなこともありますので、そういうことをふまえてお祈りをして頂くとよいのではないかなあというふうに思います。
もうあまり時間がありませんけれども、最後、「奉献文」についてお話しします。奉献文は、通常、主日に使っている奉献文は、2が代表ですね。2が一番簡潔ですので2になってしまいますが、3もあります。それから4もあります。4の場合は叙唱が指定されている、他の叙唱を使うことができません。救いの歴史を述べた非常に素晴らしい内容なんですが、4になると奉献文が少し長くなります。そして、1は公会議の前まで使っていたローマ典礼に非常に固有の式文で、聖人の名前を言うんですね。でも、今はほとんど使いません。実は、他にもあります。「ゆるしの奉献文」、とか「子どものミサの時の奉献文」とかいろいろございます。
「祈りの法は信仰の法」ということわざがあります。我々は、祈っている内容を信じ、信じていることを祈っているので、信仰と祈る言葉は一致しなければならないですね。
さて、ミサの奉献文、すべての奉献文に共通している部分で、非常に重要な部分は、「Consecrationコンセクレイション」司祭がパンと葡萄酒を聖別する時の言葉、昔は聖変化と言いましたが、コンセクレイションの言葉ですね。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである」「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である、これをわたしの記念として行いなさい。」
これは司祭だけが唱えることができます。この言葉に、ミサの意味、そして典礼の意味がすべて込められていると言っても過言ではないと思います。そして、この表現はわたしたちにとって、分かりにくい言葉が含まれている。「契約の血」という言葉に違和感がありはしないかと思う。まあ、このことは、聖書を勉強することによって、かなり理解することができるのですが、それでも、どうしてもわかりにくいという気持ちがわくかもしれない。本郷教会に太田道子さんという聖書の学者が、月に
二回来て、聖書の話をしてくださっていますので、「契約」とか「犠牲」とかそういう中心的なことについて、さらにしっかり学ぶことができると思います。「契約の血」ということですが、この「契約」ということが、何を言っているのだろうか、と。わたしたちの生活全体が契約と言うもので成り立っている、と言えば成り立っている。電車に乗るのも、所定の費用を支払ってサービスをうけているわけです。しかし、この「契約の血」というところ、どうして「血」が出てくるのか、ということについて、違和感がありはしないだろうか、と。わたしが千葉県の教会、ま、柏教会という教会、豊四季教会になっていますが、働いておりました時に、熱心な信徒の女性のお母様が、たまたまミサに参加されました。そして、ミサは日本語ですので、言葉はよく伝わるわけで、この「契約の血」という言葉を聞いてかなりショックを受けたということを、その娘さんからあとで聞きました。
この「新しい契約」という言葉はエレミアの預言で出てくる言葉です。古い契約はもう終わります、新しい契約を結ぶ時が来ます、とエレミアの預言が言っているわけです。
エレミア書31章31節
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
その時、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
このエレミアという人は、大変苦しんだ預言者として有名で、「エレミアの告白」という言葉があります。イスラエルの国が滅ぼされ、滅亡する時代を生きた預言者で、彼は、聞く人にとっては聞きづらい言葉を伝えなければならないという使命を授かって大変苦しんだ。彼の言う事に多くの人は反発し、そして彼に対する激しい憎しみが表明されたわけであります。それでも、止めることができない、その苦しみを彼は言っています。モーセを仲介として与えられた神の掟、シナイ山で授かった掟をイスラエルの人々は守ることができなかった、この契約ではイスラエルの民は安息の地に入れないということが明らかになった、バビロン捕囚というできごとに遭遇することになりました。それで、もう一回神様のほうからやりなおそうということで、古い契約は廃止され、新しい契約を結ぶことにしたと、そういう意味だと思います。そこで「新しい契約」という言葉が生まれたんですね。
でも、「契約の血」っていうのはわかりにくいですね、イスラエルの人々は牧畜民族なので、神様に動物を献げていた。彼らの貴重な財産は家畜でした。羊や牛、山羊などの動物を屠って、殺して、神様に献げると、その時流される血が「契約の血」と言われていたわけであります。出エジプト記では、旧約の締結の場面が述べられています。
出エジプト記24章3節
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱を
イスラエルの十二部族のために建てた。
彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
モーセは血の半分を取って、鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
モーセを仲介として結んだ契約の時に流された血は、いけにえとされた動物の血です。雄牛の血、で、それを契約の当事者双方、イスラエルの民と神さま、神さまが祭壇で表わされていて、だから、祭壇とイスラエルの民の両方に血を半分ずつふりかけて、どういうことなんでしょうかね、命がけで契約を守りますという意味なんでしょうか、そういう場面で、非常に血なまぐさい、想像するだけで気持ち悪くなるような場面ですけれども、わたしたちの新約の締結というのは、イエス・キリストの十字架の血によって行われたというようにわたしたちは理解するわけです。契約の血。
で、そのことをミサの度に、ミサを献げる度に記念する。この、記念という言葉は「アナムネーシス」と言いますが、昔あったことを思い起こす、ということではなくて、「今ここに、同じことが行われます」ということを表しているわけであります。ただ、わたしたちは、イエスの生々しい血を見たり、嗅いだりするわけではなくて、葡萄酒として献げられるのでありますが、そこに復活したイエスがおられるということをわたしたちは信じているわけであります。そして、わたしたちはイエスキリストの血によって贖われた者であり、その結果、聖霊を受けて、わたしたちは聖霊を神殿とする民です、ということを信じて信仰宣言をしている。
2000年前に起こったことを、今も意味ある事として、効力のある働きがあると信じるのは、ひとえに、聖霊が働いているということを信じるからであります。司祭は献げものに手をささげてお祈りしますが、これは「エピクレーシス」といって、聖霊が働くことを表しています。ちなみに、祝福したり、叙階の時に色々唱えたりする時も按手しますが、按手というのは聖霊が下るということを表しています。叙階式、助祭、司祭、司教の叙階式の中心は、按手なんですね。按手する時に司祭の、司教の唱える言葉と共に聖霊が働いて、聖霊の恵みが、受ける人に伝えられるということをわたしたちは信じているわけでございます。
ですから、ミサの「コンセクレイション」の「これはわたしの契約の血、あなた方と多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。」「永遠の契約」ですから、もう、一度で、一度流されたイエスの犠牲の御血は永遠にすべての人の為に有効であるということをわたしたちは信じ、その犠牲の恵みが「今ここで」与えられるということを信じて我々はミサを献げているということであります。で、その精神によりふさわしいお祈りをしましょう、ということで、その共同の祈りが典礼になります。
今日は「契約の血」についてお話ししました。今日の話は以上でございます。