カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「世の罪を除きたもう主」
2020年01月20日
2020年1月19日、本郷教会
第一朗読 イザヤの預言(イザヤ49:3、5-6)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への第一の手紙(一コリント:1-3)
福音朗読 ヨハネによる福音書(ヨハネ1:29-34)
今日、年間第2主日の福音は、ヨハネによる福音、1章からとられております。
洗礼者ヨハネがいわれた言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」という言葉を今日、少し深く味わうようにしたいと思います。
わたしたちは、イスラエルの民の中から生まれたキリスト教という宗教を、この日本において告げ知らせ宣教しているのであります。イスラエルという民族の歴史、文化、言語と非常に遠い環境にあるわたしたちが、このイスラエルの民の中から生まれたイエス・キリストを信じる宗教をどういうように理解し、どのように説明したらよいだろうか。これがわたしたちの課題であると思います。
今日の福音の言葉のおそらく中心となる表現は 「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉ですね。
あぁ、なるほどなるほど、と心から共感できればよろしいのですけれども、「神の小羊」という言葉はもう何度も何度も耳にしていて、もしかして素通りしているかもしれないんですけれども、なんで「神の小羊」が世の罪を取り除くことになるのかと言われたら、どう説明できるでしょうかね。
わたくしも、もう何十年もの信者ですが、あまり人に説明するということを考えたことがない。しかし、司祭になり、説教もするときに、もうわかっていることだからあまり言わなくともいい、という感じで過ごしてきてしまいましたが、ま、今回、ふとこの言葉を一般の人に、自分の家族に、友達に、もし説明する機会があったら、どういうように話すだろうか。皆さん、どうしますかね。
イスラエルの人々は、牛や羊を飼う人々だったですね。わたしたちの周りには、あまり、というかほとんど牛や羊っていうものはないわけです。それからこの「罪」という言葉ですが、まぁ、もちろん意味は知っていますけども、一般の人は「あなたは罪人(つみびと)です」といわれると、わたしは何も悪いことはしていないよ、と。ま、交通違反をしたりですね、或いは、人のことを憎らしいと思ったりすることはあるけれども、それがどうしたんだ、というような反応が、ま、言葉には出さないかもしれないけれども、起こるのではないだろうか。どう言ったらよいのかなーと思うんです。でもそれで終わりだったら仕事にならないわけなので、一生懸命考え祈っています。これはわたくしがやらなければならないことなんですけれども、皆さんもしなければならない宿題なんですね。それでこの問題を延々と話すわけにいかないんですけれども、今、献げているミサですね、ミサの中で、毎回、ほとんど毎回、「神の小羊」という言葉を使っているわけで、平和の賛歌で「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、我らをあわれみたまえ」 と唱えています。栄光の讃歌でも「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えています。
そこでヒントになるようなことをご一緒に、ちょっとの時間しかありませんけれども、考えてみたいと思う。
この聖書と典礼はいつも脚注、この下の欄に小さな活字で大切な言葉についての説明がついております。
神の小羊というのは過越祭のときに献げられる犠牲なんですね。
イスラエルの民はエジプトから脱出したことを記念する過越の祭りというのをしてきました。
そして、そのイスラエルの民の罪を赦してもらうために献げるいけにえ(いけにえ)でありました。
イスラエルの人々は、モーセを通して律法を授かったわけです。この律法を守ることができなかった。そういう場合どうするかというと、神様には「わたしたちは、守りおこないます。」と約束したわけですから、約束を守れなかった場合には、お詫びして赦してもらうことになるわけで、お詫びする、そのお詫びの仕方が、彼らのやり方としては、動物のいけにえを献げる。動物、自分たちの財産である動物、家畜、羊、牛、あるいは山羊とかを、屠る(ほふる)、殺して神様にささげる、特に、「焼き尽くすといういけにえ」といういけにえがあって、焼き尽くすんですから、全部焼いて、あとかたなく、灰しか残らないようにする献げ方なんだろうと思う。そうやって、「神様、ごめんなさい、おゆるしください」とお詫びするわけですが、罪の度に、何度も何度も繰り返しお詫びしなければならない。
そのうちに、預言者を通して神様言われた。「わたしはもうあなた方の血なまぐさいいけにえには飽きた、もうそんなものはもういらないよ、」と。「わたしが願っているのは動物のいけにえではない。あなた方が心から悔い改めることだ、あなた方の心が欲しいんだ、心だよ」そういうお告げがあったのです。
わたしはあなた方から動物のいけにえを望んではいない、そういわれました。
そういうイスラエルの歴史の中で、ナザレのイエスというひとが現れたのであります。
皆さま、ご存じと思いますが、このミサの中でわたしたちは繰り返し罪の赦しのための犠牲を、パンと葡萄酒という形で献げています。
昔のように動物を殺して、動物の血を流して、神様に献げる必要はない。それはイエス・キリストがただ一回だけ、十字架にかかってすべての罪を贖う(あがなう)、罪のお詫びとなる犠牲となってくださったので、もう神様に動物のいけにえを献げる必要はなくなった。
わたしたちはその新しい時代、イエス・キリストによってもたらされた新約の恵みを受け取る時代に生きているのであります。
使徒パウロの言葉をもう一度思い起こしましょう。
「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ書8・3)
この言葉を、まぁ、わかりやすいとは言えないですね。
神は御ひとりごイエス・キリストを送ってくださった。わたしたちと同じ人間となってくださった。わたしたちと同じ人間の弱さを身にまとってくださった。そしてその体をもって神様へのお詫びのいけにえとなってくださり、そして罪を罪の結果として受けるべき罰を、イエス・キリストが十字架によって受けてくださったのである。そういうように説明していると思います。
こういう説明が我々、この日本列島に住んでいる者にとってわかりやすいのかどうか、ずっと昔から考えているけれども、わかりやすいとは言えないような気がするが、しかし神様に動物のいけにえを献げることは必要ない、必要ないどころかあまり意味がないということはわかります。
何が大切かというと、神様がお望みになっていることを行うことであって、形式的に儀式に与り動物を殺してそれで済んだということは、そういう生き方は意味がないんだ、ということをイエス・キリストは自分の命をかけて示してくださったのであります。ですから、我々は血なまぐさいいけにえは献げません。そのかわり イエス・キリストが生涯をかけて示してくださった生き方を記念するミサ聖祭を献げているのであります。