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イエスの福音への招き「わたしたちも神の命に与っている」

2020年01月14日

主の洗礼 A年

2020年1月12日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ42:1-4、6-7)
第二朗読 使徒たちの宣教(使徒言行録10:34-38)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ3:13-17)

説教

イエスは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。
そのとき、天が開いて、神の霊が鳩のようにイエスの上に降ってきたのであります。そして、天からの声がしました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」(マタイ3:13)
「わたしの喜びとするものである」という言い方もできるそうであります。
わたしの心に適う、わたしの喜びとするものであるという神の声は、既に、旧約聖書の『イザヤ書』において預言されていたと教会は考えています。
第一朗読を思い出してみましょう。
「主の僕(しもべ)」と呼ばれる人物が登場します。この僕は、神が選んだもの、神の霊が注がれたものであります。彼は、大きな声を出すことはしない、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことが無い。」(イザヤ42:3)
「傷ついた葦」もう、ちょっとしたことがあればポッキリ折れてしまうような、打ちひしがれた状態にある人のことでしょうか。「暗くなってゆく灯心」風が吹くと火が消えてしまうような状態にある、弱り果てている人のことを言うのでしょうか。
そういう人達に対して、やさしく、注意深く取り計らう主の僕の姿が告げられています。
さらに、きょうの第二朗読でペトロが言っております。
ナザレのイエスは聖霊と力によって油注がれたものであり、彼は方々を巡り歩いて人々を助け、悪霊に苦しめられている人を全て癒された。
きょうは、そのナザレのイエスが洗礼を受けたことを記念する日であります。
わたしたちも洗礼を受けました。そして、そのとき、聖霊を受け、神の子とされたのであります。
神の子とされたということは、“イエスと同じようなものとされた”ということを意味している。
イエスと全く同じものになったのではないが、まあ、イエスの兄弟。わたしたち人間は、永遠のみことばがわたしたちと同じ弱い人間性を執って下さったことによって、わたしたちも神の子の命に与るものとされました。
わたしたちの中には、依然として、弱さ、脆さ、或いは、敢えて言うならば惨めな部分が残っています。
足を踏み外すこともある。しかし、わたしたちは既に神の子とされています。
その自覚を、きょう深めることが大切ではないでしょうか。
わたしたちは、ほかの人を見、そして自分自身を振り返るときに、これで神の子かなあ、などと思うことがあるかもしれませんが、信仰の目で観るならば、わたしたちは既に神の子となっているのであります。
神の恵みは目に見えませんが、信仰は、目に見えない神の恵みが働いているということを信じ、そして、そのように生きることではないでしょうか。
ヨハネの福音によりますと、わたしたちはイエス・キリストを信じることによって、既に、永遠の命に移されているのであります。
それでは、イエス・キリストとわたしたちとの間には、どのような違いがあるのだろうか。
この問いは、謂わば、永遠の問いのようなものであります。
イエスの場合、人間であるイエスと、神の子であるキリストとの間には完全な一致があります。
イエスのなさることは全て、神のみ旨(こころ)に適ったことでありました。
わたしたちの場合は、なかなかそうはいかない。しかし、概ね、わたしたちは神のみ旨に従って生きていると思います。完全ではないですが。しかし、神さまがお望みになるように生きようと勤めています。そして、それができているのは神の霊、聖霊を受けているからであり、聖霊がわたしたちの中でわたしたちを浄め、励まし、動かしてくださっているのであります。
わたしたちはいわば、神の命、人性と神性の「神性」に与っているということができます。
この信仰をもう一度確かめ、そして決意を新たにして2020年の歩みを続けて参りましょう。