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イエスの福音への招き「聖家族」

2019年12月29日

聖家族(祝日 A年)

2019年12月29日、本郷教会

第一朗読:シラ書(シラ3:2-6,12-14)
第二朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3:12-21)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ2:13-15,19-23)

説教

きょうは、聖家族の日でございます。
待降節第四主日12月22日の福音について申し上げましたが、ヨセフという人の信仰を、わたしたちはきょうも引き続き、より深く学びたいと思います。
ヨセフは、許嫁であったおとめマリアが妊娠したことを知って深く悩みますが、主の天使が夢の中で告げたことを信じて、マリアを妻として受け入れました。きょうの箇所は、さらに、その続きであります。
22日の時も申し上げましたが、ヨセフという人が何を言ったかということが聖書には出てこない。そして、夢の中で天使が告げたことを信じ、受け入れ、即、実行したのであります。これが、非常に、特色となっている彼の生き方ですね。
いま、読んだ箇所でも何と出てきましょうか。「エジプトに行きなさい」、それから、「イスラエルに帰りなさい」、そして、さらに、内容は書かれていませんが、「ナザレという町に住んだ」、ということですね。「子どもとその母親を連れて」という表現が何度か出てきます。
そうしますと、わたしたちは、もちろん、イエス・キリストを信じ、その母マリアを崇敬していますが、(聖家族には)もう一人、ヨセフという人がいるわけで、きょうは、そのヨセフという人が主役になっているわけなのですね。
ナザレというところは、どんなところでしょうか。わたしは昔、バスで通過したので、ゆっくりナザレというところを見る余裕がなかったのですが、聞くところによると、いまは、イスラム教徒のアラブ人が住んでいる場所になっている。もちろん、カトリックの聖堂とか、修道院はありますが、一度巡礼で訪問して、ナザレの聖家族の生活を偲んでみたいなあとつくづく思います。
ナザレで、聖家族ヨセフ、マリア、イエスは、どのように過ごしたのでしょうか。
およそ三十年間と考えられています。この期間、イエスは、何ら目立った行動をしていない。少なくとも『聖書』は何も告げていない。ただ一つ、12歳の時に、神殿を詣でた時の逸話が「ルカ福音書」の中で告げられていますが、それだけです。
普通に、彼らは目立たない生活をしている。おそらく、会堂に通って礼拝に参加していた。まあ、そこが学校の役割を果たしていたのでしょうか、イエスは『聖書』を学んだはずであります。そして、ヨセフは大工をしていたので、父親の仕事を手伝い、父親の教える大工の仕事、技術を身に付けたのでしょう。まあ、大工と言っても、まあ、わたしたちが連想する大工さんではない。どういう仕事かよくわかりませんが、まあ、「便利屋さん」というか、どんなことでも求めに応じて、家屋に関することだけではなく、農具そのほかを作ったりする仕事であったようです。
さて、きょう、わたしたちは聖家族の日を迎えて、何を学ぶべきであろうか、と。
現代のわたしたちの生活から見て、この二千年前の、ローマ帝国の一番端の方にあった「ナザレ」というところで過ごしたこの家族の生活、今の私たちの生活とはかなり違う生活で、そこから何を学ぶべきだろうか考えます。
パウロ六世教皇が、かつて、ナザレを訪問し、そのとき行った説教が残っています。パウロ六世がおっしゃったことを参考にしながら、一緒に考えてみたいと思います。
パウロ六世が最初におっしゃったことは、意外と言えば意外だが、意外でないかもしれない。
「沈黙の尊さを学びましょう」ということです。
既に、パウロ六世はそんなに昔ではないが、かなりもう時間がたっているわけですね。パウロ六世の時代から30年近く、亡くなってもう何年も経ちましたが、彼は言う。
「現代、われわれは非常に忙しく、うるさい生活をしている。わたしたちに必要なのは、沈黙の生活である。静かに、自分の心を見つめ、そして、さらに、神の声に耳を傾けることです。」
「あれもある、これもある。なにやかやで自分を失ってしまう日々を過ごしている。」
先に、何度か言いましたが、教会では、聖堂では、静かに過ごしましょう。いろいろなこと、仕事のことや、そのほかいろいろなことが頭と心に浮かんでくるでしょうけれども、それを一旦どこかにしまって、神様が何をおっしゃっているのか、或いは、自分はいま、どこにいるのか、何をしたら良いのか、何を選ぶのかなど、自分が人間らしく、そして、信者として生きるために非常に大切なことを学び知るための時間、沈黙の時間が必要であります。
二番目、それは、父親の役割、ということです。
いまの教皇、フランシスコ教皇も「家族」について講話をしています。
そして、わたくし自身の拙い経験から思うことです。父親ですね、きょう、ここにお父さんがたくさんいらっしゃいますけれども、父親の役割が非常に大切である。いまの子ども達は、今に限らないが、父親と一緒に過ごす時間が非常に少ない。お父さんが、どこで何をしているのか見えない。
ナザレでは、一緒に生活し、少年イエスは父親が大工の仕事をしている場面を見ているわけで、父親がいつどこで何をしているかということは自ら分かったことでしょう。もちろん、『聖書』には何も書いていないからといって、ヨセフが全く無言で生活したとは言えず、会話もあったことでしょう。
父親は、自分の生活、自分の仕事を通して、生き方、男たるものはどのように生きるのか、どういう困難があるのか、困難にどう立ち向かうのかということを父親は身をもって示すものであります。
いまの時代、日本に限らないでしょうが、「父親不在」が問題だとフランシスコ教皇が言っています。まあ、そうなってしまうには、それなりの事情、理由があるわけです。
父親は、人生がいかに生きることが大変であるかということを子どもたちにも見せないといけない。
わざわざ見せなくても、わかるように生きている。
そして、何をなすべきか、何をしてはいけないかという「父性原理」を生きなければならないのであります。何があっても、どうでもよいということではない。これはこれ、あれはあれとしっかり区別して、自分の人生をしっかりと生きている姿を子どもに示さなければならないと思います。
それに関連して、すぐに思い出すことは、われわれ「司祭」のことであります。
日本では、司祭は「神父」と呼ばれています。以前は「霊父」(れいふ)と言ったのですね。「霊的な父」の意味。「神父」という呼び名は誤解をされますが…。
明治時代になってキリスト教の宣教が許可されたときに、おそらく中国からいろいろなキリスト教、カトリック教会をも輸入した。その中に、「神父」という言葉があった。キリシタンの時代には「神父」という言葉は見られないのです。
この中国語で「神」(しん)という語は「霊的」(れいてき)という意味であるので「霊」(れい)と同じことであります、「霊的な父」。
司祭は「司祭は、霊的な父親である」その父親の役割をどのように果しているだろうか、果たすべきであろうか。
司祭の役割は大きく分けて三つあります。
一つは、祭儀を執行する。いま行っているミサを献げること。
それから、教えを宣べ伝えること。
そして、「牧者」、旧約聖書で言えば「王」の役割であります。
特に、この牧者の役割について『聖書』は、特に『預言書』はしばしば警告をしている。
牧者は羊を養う者である。当たり前です。羊を導き、養い、守るものである。
牧者は自分を養うものではない。自分の利益、自分の名誉を求める者ではない。
必要な時に羊飼いは羊のために命を捨てる。
主イエスがおっしゃっている通りであります。
いま、司祭が、言葉で教えることも大切ですけれども、自分の説いていることを心から信じ、実行しているだろうか、そのことを、深く反省すべきではないでしょうか。