カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「無原罪の聖マリア」
2019年12月12日
2019年12月9日(月)、本郷教会
今日は「無原罪の聖マリア」の祭日をお祝いいたします。
今読んだルカによる福音が伝えておりますように、マリアは天使ガブリエルのお告げを受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
と答えられました。
天使の言われたことは、彼女には理解し難いことでありました。
そしてさらに、それは受け入れ難いリスクが大きいことでありました。
しかし、「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)という天使の言葉に信頼し、神のお告げを信じ、受け入れたのであります。
マリアの信仰と従順は、わたくしたち教会の模範とされています。
マリアが教会の模範であると『教会憲章』が言っています。
わたくしたちはその模範に倣うように努めていますが、かなり遠いところにいるのではないだろうか。
このたび教皇フランシスコが日本に来てくださいました。
そしてわたくしたちは教皇様のお言葉を聞いたわけであります。
いろいろなことを言ってくださいましたが、その中でもわたくしは「二つのこと」に特に強い関心を持ちました。
昨日わたくしはイエスのカリタス修道女会の誓願式を頼まれていたので、そちらでのミサは聖母のミサでありましたので、「無原罪の聖マリア」のミサを献げたのであります。
その時の説教がすでに文字化されていますので、聖堂の入り口に置いていただきました。
それを是非お読みください。
そこで述べたことと同じことを短く申し上げたいと思います。
わたくしたち自身とこの世界は、神がお望みの状態にはなっていないということを、まずわたくしたちははっきりと知らなければならない。
どうしてそうなったのかということについては、最初の人間アダムとイヴの神への不信仰と不従順によるのであると創世記は説明しています。
そのことを、のちにカトリック教会では「原罪」と言っている。
そして例外的に、おとめマリアだけはその「原罪」の汚れから免れている。
しかしすべての人は罪の汚れの中に置かれている。
個人としてだけでなく人類としても、そうあってはならない状態に置かれているのであります。
そうあってはならないということの中に、わたくしたち個人のさまざまな問題がありますが、今日は人類としての問題をご一緒に考えたい。
教皇様が日本に来て、長崎と広島から全世界に向かって発信されたお言葉、それは「核兵器の禁止」ということでありました。
核兵器を使用してはいけない。
それだけではなく保有してもいけない。
それは神の御心に反する。
そう言ってくださったわけです。
唯一の被爆国である日本においては大変ありがたい重要なメッセージでありました。
それと関連して思うことがあるのですが、国際連合(国連)では、「核兵器禁止条約」というのが採択されております。
国際連合というのは世界中にある沢山の国が参加して、それぞれその条約を受け入れるかどうかを決めることになっているわけですが、世界中のほとんどの国が「核兵器禁止条約」に賛成している。
核兵器は使ってはいけない、使わないどころか開発するとか他の国に移譲するとか核兵器の使用をほのめかして相手を脅すとか、あらゆる核兵器に関することは止めましょうという内容だそうです。
ですから問題なく全世界の国が賛成し、その条約が有効になるべきですけれども、核兵器を保有している国は賛成しないですね。
自分たちは持っていて、自分たちはいつでも使用できるようにしておいて、でも他の国は持たない方がいいという、そういう論理でしょうか。
安全保障理事国という大国があるわけで、アメリカを始めとするこれらの大国は全部核兵器を持っている。
では日本ではどうか。
日本は持っていません。
持とうとすればいつでも持てる実力はあるそうですが、持っていない、少なくとも持っていないと言われている。
だから、この条約に賛成して批准するかというと、していない訳ですね。
自分たちが酷い目に遭ったこの核兵器、それはもう全世界の人に使ってもらっては困る、持つのを止めましょうと当然思っているわけですが、そのことを決めている条約を認めないという、この矛盾は何であるのか。
これが教皇様の言われた第一点ですね。
もう一つは違う方面のことです。
人間はなぜ造られたのかというと、幸せになるためですね。
神は人間に命をお与えになり、この地上で神の恵みの下(もと)に生涯を終え、そして神の恵みの下に還るのであります。
すべての命は尊い。
今回の教皇の日本訪問のテーマは、「すべてのいのちを守るため」ということでありました。
戦争は命を破壊する最も酷い悪でありますが、それ以外にも命を損なうことはたくさんある。
さらに非常に残念なことは、自分で自分の命を絶つということです。
自分で自分の命を大切にできない状況、これは非常に悲しいことであります。
昔は自殺と言いましたが自死、そこまでは至らないとしても自分の場所がないと思うからなのか、家出や蒸発をしてしまう。
あるいは引き籠って人との関りを拒絶するような現象があるわけです。
自分が存在していることの意味が見つからない、あるいは喜びがない。
それは神さまが望んでいない、神様のお望みに反することであります。
このような状況、つまり国と国が戦争をして人を大量に殺戮する戦争、あるいは人間が生きがいを失って自殺してしまうという状況、これは神が造った世界にはあってはならない、本来なかったことです。
神は御自分が造った世界を見て、「極めて良い」とおっしゃったと創世記が述べています。
今日は「無原罪の聖マリア」の祝日でありますが、世界に蓄積されている悪の中にわたくしたちは生まれ、そして生きて行かなければならない。
その罪と悪の影響から免れ得ないという弱さを持っている。
それが人間の「原罪」ということではないかと思いますが、おとめマリアはこの世の不条理の中で信仰 信頼 従順を守って生涯を終えられました。
教会の模範である聖母に倣い、わたくしたちも日々見たり聞いたりするいろいろな問題の中にあっても神の導きを信じ、神の助けを頼りに勇気を持って生きていくことができますように、今日祈りたいと思います。
日本という国が直面している難しい状況の中で、勇気を持って福音を実行したい。
それは、他国やあるいはほかの人、あるいは自分自身を傷つけることによって自分の安全を保とうとする、自分の生きがいを見出そうとすることを止めるということです。そうできますようお祈りをしたいと思います。