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イエスの福音への招き「主の僕イエス」

2019年12月12日

待降節第二主日

2019年12月7日(土)14時,本郷教会

第一朗読 イザヤ書 7:10-14
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 1:1-7
福音朗読 マタイによる福音書 1:18-24

説教

待降節第二主日には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは主イエス・キリストの到来を準備するという役目を与えられておりました。
彼は人びとに悔い改めのための洗礼を授け、そして更に言われました。
「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
聖霊と火とは多分同じことを指していると思います。ヨハネは人びとに水の洗礼を授けましたが、後から来る方は聖霊によって洗礼を授けますと言われたのであります。
さて、このヨハネという人はエリザベトの子どもですが、おそらくナザレのイエスと親類の関係にあった人なのでしょう。イエスとヨハネの間には、成長するまでの間にいろいろ連絡や接触があったのかもしれませんが、聖書はそのことには触れておりません。
期せずして、でしょうか、二人は神から遣わされた者として同じ目的に向かって歩む神からの使者になりました。
ヨハネの方が先に活動を開始しました。
そのヨハネのスタイル、服装や生活の仕方が今日の福音に出ています。
「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
これはたいへん厳しい禁欲的な生活の有様を示しており、このヨハネの姿は、旧約聖書の代表的な預言者の一人であるエリヤを彷彿とさせるのであります。
エリヤという人は、非常に激しい活動をした人でした。
バールの預言者と闘って彼らに打ち勝ち、彼らを一人残らず打ち殺すという挙に出た人でありますが、時の王から激しい憎しみを買って命に危険を覚え、シナイ山に向かって逃亡するということになった次第を列王記は伝えています。(列王記上18・16-19・18参照)
またエリヤは非常に激しい人であって、自分に差し向けられた兵士たちに神からの火を放って焼き殺すということもしています。(列王記下1章参照)
このエリアのイメージと、洗礼者ヨハネのイメージがかなり重なってきます。
それに対してイエスの方はどうでしょうか。

今日の福音に引用されているイザヤの預言は、非常に豊かな内容を告げる非常に長い預言書であります。第一朗読がイザヤの預言でありました。素晴らしい内容をわたくしたちに告げている。
この「エッサイの株」というのは、エッサイという人がダビデの父でありますから、切り倒されてしまったようなイスラエルの民族の中から微かに残された、いわゆる「残りの者」である芽が生え出て来ると言います。「ひとつの芽が萌いで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」
イザヤの預言ではしばしば、「主の霊がとどまる」、「主の霊が与えられる」と言っているのであります。今日のイザヤ書では、この主の霊はどういう霊かというと、次に述べられています。
「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(イザ11:2)
実はここで述べられているこの主の霊は、堅信の秘跡の時に授けられる聖霊の賜物と同じであります。
福音書はしばしばイザヤの預言を引用しています。さらにいろいろな箇所がありますが、一つだけ選ぶとすると次の箇所になりましょう。

マタイの福音に引用されております。(マタイ12・9-21参照)
イエスは安息日に会堂で手の萎えた人をお癒しになりました。その次第は次のようです。
イエスは会堂で片手の萎えた人を癒されました。その有様を見ていたファリサイ派の人びとは、安息日を破る者としてイエスに激しい敵意を抱き、イエスを無きものにしようと考え始めたのでありました。
その出来事のすぐ後で、イエスは多くの群衆の病気をお癒しになられた。
マタイの福音書は、預言者イザヤを通して言われたことがこうして実現したのである、と言います。
そのイザヤの言葉、それは主の僕(しもべ)の歌と呼ばれる箇所の一つです。
マタイの福音書での引用ではイザヤ書の引用は次のようになっています。*
「見よ、わたしの選んだ僕。
わたしの心に適った、愛する者。
僕にわたしの霊を授ける
彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず
その声を聞く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、
彼は傷ついた葦を折らず、
くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ12・18-21)

このイザヤの預言からわたくしたちは何を読み取ることができるでしょうか。
この僕の姿はナザレのイエスによって実現しました。この僕は主なる神の心にかなった者、イエスが洗礼を受けた時に天から声がした時に言われた言葉通りの神に愛された者。イエスは天の父の御心にかなう者であります。神の霊を受けた者、神の霊に満たされた者であります。
イエスはナザレの会堂でイザヤの預言61章(1-2節)を引用して、ここで言われている主の僕の歌の言葉「神である主の霊がわたしの上にある」は、自分人自身のことを指していると言われました。イエスはイザヤ書の言葉を引用しながら、主の霊が自分の上に降っていると強調しているのであります。
さて、この僕は「異邦人に正義を知らせる」人であります。ユダヤ人、イスラエルの人びとを越えて異邦人に神の言葉を知らせる者である、と言っています。
その次の節の表現が非常に特徴的であります。
「彼は争わず叫ばず その声を聞く者は大通りにはいない」
正義を勝利に導くまで、最後に神の義が実現するその時まで忍耐して待ち望むのである。
「彼は傷ついた葦を折らず くすぶる灯心を消さない」
傷ついた葦はもう少し力が加わると折れてしまいます。
それは、苦しめられ痛めつけられ蔑まれ、もう生きていく力が尽きそうになっている人のことを指しているのでしょうか。もうちょっとしたことがあれば命が尽きてしまう、あるいは生きる力、命を支える力がなくなってしまうような状態にある人を細心の注意をもって優しく労り助ける。そういうことを言っていると思います。
「くすぶる灯心を消さない」も同じことだと思います。
昔の明かり取りはランプの油に芯を通して、その芯に油を沁み込ませて、その芯に火を点けて周りを明るく照らすという照明であったと思いますが、何かの原因でその灯心がくすぶって消えそうだといっているのですが、これももう少しで命が絶えそうな非常に脆い弱い危ない状態にある人のことを言っているのではないだろうか。
そういう人に対して、優しく細心の注意をもって命が尽きないように命の火が少しずつ明るく灯るように助ける、という、そういう行為を指しているのではないかと思います。
この主の僕は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない人である。
洗礼者ヨハネがわたくしたちに示した姿は、激しい気性を持っている自分に敵対する者を打ち殺し、あるいは神の火をもって焼き殺してしまうエリヤの姿を思い起こさせますが、そのヨハネが到来を告げ知らせたナザレのイエスという人は、そのエリヤとはかなり違った姿、生き方を示している。
弱い人貧しい人苦しみ悩む人に寄り添い、彼を最後まで慰め励まして神の下に導く人ではないかと思います。
わたくしたちはそのイエスの弟子となっていますので、そのようなイエスの生き方を少しでも自分の日々の生活と活動の中で実現するようにしたいと思います。

*イザヤ書の原文はマタイへの引用とは少し違う表現になっています。
以下のとおり。
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは
島々は彼の教えを待ち望む。
(イザヤ42・1-4)