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イエスの福音への招き「主の僕イエスと宇宙の王キリスト」

2019年11月24日

王であるキリスト(年間第34週C)

2019年11月24日、本郷教会

第一朗読 サムエル記 下5:1-3
第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1:12-20
福音朗読 ルカによる福音23:35-43

説教

待降節が一週間後と、迫ってまいりました。
きょうは、「王であるキリストの祭日」です。
王であるキリストとは、復活されて、イエスが宇宙を支配する王となられたことを記念する日であると思いますが、きょうの福音から考えてみますと、彼は、どのようにして宇宙万物を神なる父と和解させて、万物を支配するものとなられたか、という「地上でのイエスの生涯」を思い起こすことが大切ではないかと思うのであります。
地上におけるイエスは、わたしたちが持っている「王」というイメージとは大変かけ離れた状態にありました。

王という言葉から、わたしたちは何を連想するでしょうか。王様という立派な人が登場する場面を思い起こすのであります。王様というのはどういう存在かと、そこから漠然と思う「王様」と、きょうのイエスのお姿は正反対といってよいのではないでしょうか。
地上では「王」といわれる人は、どのくらいいるのでしょうか。かつてはたくさんいた。だんだん減ってきて、いま、王といわれる人はどのくらいいるのでしょうか。もしかして、トランプの王様くらいしか残らないのでは、と冗談を言う人もいます。
王というのは、王らしい服装、衣装を着けている。この中で、わたくしの心にすぐ浮かんでくる、王が体に着けるものの中で一番目立つものは、「王冠」というものなのではないでしょうか。王様は冠を着けているわけであります。

教会の最高の指導者は、ローマの司教様、いま、フランシスコ教皇様、日本に来ておられます。
ヨハネ・パウロ一世という教皇様は、わずか一カ月で亡くなられましたが、就任されるときに、従来の就任式のやり方を根本的に変革しました。その時までは、立派な冠「三重冠」を受ける戴冠式をしていたのですね。しかし、それは、「最高の牧者」というか、「牧者の中の牧者」にはふさわしくないとお考えになり、そういう権力をあらわすと思われるようなアクセサリーというのかな、をつけることをおやめになったわけですね、それ以来、ローマの司教は、戴冠式はしておりません。
人々に仕える者ですね、「僕たちの僕」という称号もあります。
わたしたちの教会の最高の牧者は、「僕たちに仕える僕」であるといわれているのであります。
聖書の中で、「王」という言葉よりも、「牧者」という言葉でその任務が表されております。
「牧者」とは羊の世話をする者であり、羊を養う者であります。神のみ心に従って、民に仕える僕が、牧者である。

きょうの第一朗読は、ダビデが、ヘブロンで油注がれて王とされたという出来事を告げています。
ダビデの前に、サウロという王がいました。このサウロという人は、王の務めをよく果たすことができなかったので退けられて、ダビデが王となったのでありました。
そもそも、イスラエルには、王というものがいなかった。王は必要ないと考えられたのであります。
なぜか、というと、王は「神さま」なのであって、「神さま」がイスラエルの民の王であって、神以外のものを「王」とする必要が無い、してはいけないとさえ思ったのかもしれない。
しかし、人々は周りの人王を戴いて、王によって国を支配し、他国と戦っている様子を見て、「どうしても王が欲しい」と、そのときの預言者サムエルを強要したので、やむを得ずサムエルは神様にお伝えすると、「そこまで言うなら、王を与えてあげよう、しかし、王とはこういうものだ。よく肝に銘じて聞きなさい。」と、言われたということがサムエル記に出ているのであります。
王は、神さまのみこころにしたがって、この地上において、神さまのみこころを行うように配慮するものであります。
特に、弱い立場の人を守り、いたわることがおもな役目でありました。
孤児、やもめ、寄留者に代表される弱者を父の愛を持って守り、いたわり、助けることが王の役割でありました。
しかし、人間は弱いもので、権力を持つと、自分の利益、自分の快楽を優先させてしまう、牧者は羊を養うべきであり、自分を養ってはいけないと、エゼキエルという預言者が激しく王たちを糾弾したのであります。
サウロの次がダビデ、ダビデの次がソロモンとなったのでありますが、ソロモンも最初の治政は良かったのでありますが、晩年、権力を乱用して、人々から大変嫌われるようになり、その後、王国は二つに分裂してしまったのであります。

旧約聖書に「列王記」そして、「歴代誌」という書物がありますが、これらを読んでみますと、大変興味深い記述が繰り返されています。「王の勤務評定」ですね。歴代の王がどうであったかということを述べている。
「大部分の王は主の目に悪とされることを行った」と、非難されているわけなのですね。合格した人はほとんどいないというわけです。
もし、どこかの国で、そういう記録を公式に残したら、大変、奇跡的ですけれども…。なにしろ、権力者は自分を否定するような公式な記録は残さないわけですが、『聖書』というのは、その辺は、大変公平なもので、王の業績を忌憚なく批判しているのであります。
さて、きょうの福音から、わたしたちの思うことは、ここに書かれている王、イエスは、わたしたちが、「王とはこういう者である」と何となく思っている姿とは全く反対の様子を示しています。
ここに告げられているイエスの姿は、預言者たちが告げている「あるべき王の姿」を現しているのではないかと思われます。
「王というのは民に仕える僕」であり、そして、「僕たちの痛みを担い、そして、過ちの結果を身に引き受ける」人であります。

イザヤ書には「主の僕の歌」というのがあります。
「この人は主の前に育った。
見るべき面影も無く、輝かしい風格も、好ましい容姿も無い。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
ほふり場にひかれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いのささげものとした。
わたしの僕は多くの人が正しいものとされるために彼らの罪を自ら負った。」
これは、「主の僕の歌」の中から、わたくしが、この言葉が特に心に響く言葉ではないかと思った文だけ、わたしの判断で抜き出したものであります。

イエスはこころと体に耐えがたい苦痛と侮辱を受けながら、人々のために自らの命を捧げる、そういう意味での王でありました。
今日読まれた福音が告げる、屈辱的なイエスの死は、わたしたちを離れ、わたしたちに罪の許しをもたらすための死であったのであります。
わたしたちは「キリスト者」と言われています。
キリスト者、それは、「油注がれた者」という意味であり、イスラエルの歴史の中で「王」は油を注がれて王となりました。その「王の務めに与るもの」として、すべてのキリスト者は油注がれた者となっているのです。
人々のために、自分を捧げ、屈辱、苦痛を飲みながら、受難のイエス・キリストの生き方に倣うことによって、宇宙万物を支配する王であるキリストの栄光に与ることができますよう、お祈りをいたしましょう。