お知らせ

典礼小講話その3

2019年11月10日

典礼小講話 3回目

2019年9月8日、 本郷教会 

これまで、「典礼とは何であるか」という話から始まって、前回は「秘跡」ということ、それから「7つの秘跡」、「記念」という概念「アナムネーシス」と「エピクレーシス」按手の祈り、聖霊の働きを求める祈り、それから、秘跡の効果、「事効的」という難しい言葉、それから、「祈りの法は信仰の法」と言われていることわざ、について話しました。
それから、本郷教会の典礼を実行するうえで問題とか、疑問があれば、話し合いましょう、という風にしておりますので、いくつか質疑があったと思います。
今日は、メモに項目を記しましたが、おおよそ、これに添おうと思います。
「典礼と時」それから、「典礼暦」「聖書朗読配分」それから、時間があれば「ことばの典礼」についてお話ししたいと思います。今まで話したこと、これから話すことは『カトリック教会の教え』というこの本に出ております。これは、日本の司教協議会が公会議の後の、教会の刷新の内容を盛り込んで、日本の教会として標準となる教えを編纂したものでありまして、もう2003年発行ですので、もう16年前になります。その前に教皇庁から『カトリック教会のカテキズム』という本が出ましてそれをとりあえず日本の教会は翻訳しましたが、それにもとづいて、日本の教会の現状に合った、そして権威のある教えの基本書を出すようにという教皇庁の勧めに従って司教協議会で編纂したものでありまして、「典礼秘跡編」をわたしが担当しましたので、この本に従って説明をさせてもらっています。

今日お話しする内容は、179ページから出ております。人間の生活には、時間のサイクルがある。で、わたしたちは時間の中に置かれていて、“年”それから“月”、1年は12ヵ月ですけど、それから“週”、月曜から日曜までの週、それから“1日”、24時間、こういう時間の中に人間は置かれています。そして、この時間を神様に献げるように求められている。時間を神のみこころにかなった時間にするように求められている、これは「時間の聖化」と言いましょう。そこで、生活のサイクルの節目節目に一緒にお祈りをして、時間を神に献げることができるようにしよう、というように教会は考えている。で。そして教会が典礼を挙行する時に、キリストの神秘、ある時ある場所で行われたキリストの生涯の神秘を、《今、ここ》で行われる出来事として体験する。《今,ここ》で。

そこで、1日というサイクルで時間生活する時課の典礼は「聖務日課」ですね。日本では「教会の祈り」と言っています。お祈りばかりして仕事をしないわけにはいきませんので、時課、定められた時間に一緒にお祈りして、1日の生活を神に献げるようにすることが、時課の典礼、聖務日課でありますが、わたしたちにはそれを事実上不可能で、特別な生活をしている人、観想修道会の修道者は定められた時間に集まって時課のお祈りを献げています。朝の祈り、昼の祈り、晩の祈り、寝る前の祈り、など細かく分かれていて、何時にどこに集まってお祈りするというようになっていますが、わたしたちはせめて、朝と晩、起きた時、それから、1日の仕事が終わった時、それから寝る前にお祈りしましょう。

集まってお祈りすることも難しいので、一人でする場合も、兄弟姉妹と心をあわせて、神様に心を上げてお祈りするということが日々の典礼、時課の典礼であります。

それから、週を周期とする、日曜から始まって土曜まで、今日は日曜日ですけれども日曜は主の日、
「主日」とされていて、日曜日は他の六日間を聖なる日として献げることができるように、集中的に一緒にお祈りする日であります。旧約聖書の時代は土曜日が安息日でありましたが、キリスト教徒は主が復活した日を主日とし、主日を持って、一週間を生活するようにしているわけであります。

それで、この主日のなかで最も重要な主日が「復活祭」。復活祭は年に一度しかありませんが、復活祭は最も重要な日であります。復活祭をいつにするかということは、325年のニケアの公会議で決められました。春分の日を過ぎた最初の満月の直後の日曜日と言う事になっていますが、暦が違うので、東方教会とは復活祭の日がずれているんですね。あちらは、どういう基準なのか、多分ニケアの公会議までは一緒なので、使用する暦が違うんだろうと思います。

それから、「聖週間」。復活祭の前の一週間が聖なる一週間で、これは非常に重要な一週間。復活祭の直前の日曜日が「受難の主日」でありまして、「受難の主日」から、復活祭までの一週間が「聖週間」であります。今度の聖週間はわたしが皆さんと典礼をお献げするので、しっかり聖週間の典礼を執行したいと思います。前回は茂原の教会で一週間、毎日執行しました。月火水、それぞれ固有の典礼があって木曜日は「聖体の秘跡」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」、なお、教区では「聖香油のミサ」が木曜日に献げられます。典礼で使う三つの重要な油ですね。「聖香油」「洗礼志願者の油」「病者の油」この三つの油を聖別するミサであります。これは司教しか献げることができないミサですね。これは木曜日にすることが基準ですけれども、教区によっては、木曜日にすると夕方のミサの時間に間に合わないので、いくつかの教区では水曜日にしているんですね、埼玉教区は水曜日、確か横浜教区も水曜か火曜か、地域の広い教区は他の日に聖香油のミサを移行しているわけであります。そして、木金土の三日間は「聖なる過ぎ越しの三日間」であって、翌日の聖金曜日は「主の受難と死の記念」の典礼、それから聖土曜日は「復活の徹夜祭」。典礼暦年の頂点であり、神の救いの歴史と言おうとする荘厳なそして長い典礼の執行をするわけでありまして、洗礼とは主の過ぎ越しの神秘にあずかる事ですので、洗礼志願者が洗礼を受ける時とされております。復活徹夜際に洗礼を受ける人が多いわけであります。

復活祭の準備の期間が「四旬節」で、四旬節は40日間ですね、で、40日間の中に主日は含まれていないので、受難の主日の前の三つの日曜日を除く40日が四旬節ということになるので、水曜日から始まる、その四旬節が始まる最初の水曜日が「灰の水曜日」であります。

復活節のあとは、「復活節」に移りまして、聖霊降臨までの50日間が復活節、そして、50日目が「聖霊降臨祭」で、「ペンテコステ」と言いまして、50日、という意味ですね。50日祭であります。

それから、主の降誕の前の季節が「待降節」。4週前の日曜日からです。それから、主の降誕祭、クリスマスの後、「降誕節」となって、「主の公現」「主の洗礼」の日が来て、洗礼の後が公生活を記念する「年間」という典礼暦の季節に入るというわけであります。

いま、申し上げていることは、皆さんは既にご存知ですけれども、整理の為に申し上げております。

さて、次は「聖書の朗読配分」ということであります。ミサ中行われる聖書の朗読箇所を定める規則が「聖書の朗読配分」。聖書の中でどの聖書の箇所を読むかということを定める規則が、聖書朗読配分の規則であります。必ず福音の朗読が行われなければならないですね。それから、福音以外の朗読は、「第一朗読」あるいは「第二朗読」の朗読は旧約聖書、新約聖書の中からその日の典礼の趣旨旨にあった箇所が選ばれます。主日のミサの朗読配分は、3年周期でありまして、3年ごとに一回りする。A年、B年、C年となっていて、今現在はC年。それから、週日のミサの朗読配分は2年周期であります。そして、主日の聖書朗読は3つの共観福音書、マタイ、マルコ、ルカがA年B年C年にそれぞれわりあてられている、現在はルカの福音が割り当てられているわけで、今日も読んだわけです。そして、待降節が来ると、A年に戻りますので、マタイの福音が読まれる。ヨハネの福音は適宜A年B年C年のどこかにそれぞれ割り当てられています。

それから、「主日・祭日」ですね。ミサには、その重要度に応じて等級があって、「主日・祭日」が最も重要で、あと「祝日」、「記念日」となっています。主日のミサの第一朗読は通常旧約聖書からとられ、復活節には使徒言行録がとられています。第二朗読は使徒の手紙、パウロの手紙など、それから黙示録からとられている。で、更に、すべてのカトリック信者がミサに出席することが求められる「守るべき祝日」というのがあります。主日はもちろん、すべての信者が出席することが期待されるんですけれども、

主日以外の祭日でミサに出席しなければならない日が「守るべき祝日」で、日本は宣教国であることを考慮して、「主の降誕の祭日」つまりクリスマスと「神の母聖マリアの祭日」1月1日がまもるべき祝日になっています。以前は11月1日「諸聖人の日」、それから8月15日の「聖母の被昇天」も守るべき祝日であったと思う。それから「主の昇天」の日も以前は日曜日でなかった、聖霊降臨の10日前の日だったんで、日曜でないからミサに出る為には仕事を休まなければならなかったのですが、日本の教会の事情を考慮して、「昇天の祭日」は聖霊降臨の1週間前の主日に移されたわけです。

次にわたしたちにとって最も大切な祭儀が「感謝の祭儀」ミサでありまして、ミサというのは、ラテン語で「派遣する」ミッシオmissioに由来すると言われています。感謝の祭儀 エウカリスチアと言われています。そして、ミサを司式する人は司教あるいは司祭ですが、ミサを献げる者はその信者の共同体、信者の全体であって、ミサは司祭だけが献げるものではなく、信者全体が献げるものであります。感謝の祭儀全体は、4つの部分に分けることができる。まず「開祭」~入祭、司祭と会衆のあいさつ、回心の祈り、あわれみの賛歌、栄光の賛歌、集会祈願。二番目に「ことばの典礼」~聖書朗読、朗読の間に答唱詩篇、アレルヤ唱、それから説教、信仰宣言、共同祈願。次、三番目に「感謝の典礼」~供え物の準備、感謝の祈り、感謝の祈りは「奉献文」と言われています。それから、交わりの儀、これは聖体拝領ですね。それから「閉祭」~となります。

そこで、聖書朗読は先ほど申しましたが、第一朗読、第二朗読、第三朗読。第三の朗読は福音書の朗読になります。第一朗読と第二朗読の間には答唱詩編が歌われる、一同は詩篇の言葉を聴きながら、朗読された聖書のメッセージを味わい、神の言葉に対する応答として答唱を歌います。

答唱だけを全員で唱えるか、全員が答唱詩編全部を歌うか、という問題がありますけれども、人数が多い場合などは答唱だけを会衆が歌う方がよろしいと思いますが、ま、本郷教会では当分、全員で歌うようにしております。

アレルヤ唱は、第二朗読の後です。その日の福音のテーマを簡潔に示す聖書の言葉からとられています。本日の年間第23主日のアレルヤ唱は、「あなたの顔をわたしの上に輝かせ,おきてを授けてください」。・・・・ん~。毎回アレルヤ唱のことばを説教の為に使わせてもらっているんですけれども、今日はアレルヤ唱の言葉が、今日の福音とどういう関係があるのか、ちょっと今のところわたしの心に何も浮かんでこないんですけれど、皆さんはどうでしょうかね。

で、三つの朗読の間の関係について、本来研究し、事前に分かち合うといいですね。ミサ中はできませんので、司祭は、主として、福音の内容と我々の日々の生活の繋がりについて、思う事、感じることを述べる、皆さんはそれぞれご自分の生活とその日読まれる福音、朗読箇所の繋がり、どういう意味で自分の生活の導き、励まし、慰めになるかということを黙想していただくことになると思います。

ま、説教というのは、する方も、される方も大変な課題で、悩みでもあると思いますが、説教というのは当日の典礼式文、朗読内容を解説して、ミサに参加する人の黙想を促すものである、教皇フランシスコが出された『福音の喜び』という教えがありますが、そこには説教についてかなりなスペースが割かれています。

神のことばはいつでもどこでも変わることはありません。教会の典礼式文の中で定められている。今日はこの辺をこういう風に変えようということは通常してはならないわけです。しかし、わたしたちが置かれている現実は非常で多様であり、たえず変化している。このような状況にある信者に神は聖書のことばを通して、今、何を語っているのか、この説教、この問いに対する解答の示唆、助言、神は今、わたしたちに何を語って下さいます、と。

神のことば、2000年前に、3000年前に、成立した聖書のことば、その時代のその場所の言語、ヘブライ語やギリシャ語とかで書かれたことばですが、それを我々は自分のことばで聴き、そしてそのメッセージが今の自分にどういう意味を持っているかということを味わうのであります。

それでは今日の話は一応これで終わります。

質問:
≪感謝と質問でございます。最近ごミサの中で沈黙の時間をたっぷりとって頂いている感じがしています。ごミサの中でゆっくり考え、黙想できる時間というのはすごく大事なんだなあと言う事を感じております。オルガニストにも適切なところで、祭壇を中心に音を出して頂くとか、ご指導のたまものだと思っております。質問ですが、先ほど、答唱詩編を歌うところ、今、司教様は本郷教会では、皆さんで詩篇を歌うようになっていますとおっしゃったんですが、今まで一か月に一回、答唱は皆さんが歌って、詩篇は準備している方がおりますので、その方が準備して歌うようにしていたので、ぜひその形を残して頂けるようにお願いいたします≫

≪オルガニストから皆さんにお聞きしたいことがあるんですけれども、この頃、オルガンの向きを変えたことが関係しているのか、時々音が大きすぎたり、小さすぎたりという感想を頂くことがあって。後ろにすわっていて、大きすぎるとかいうことがありますか?もし、気づいたことがありましたら、わたしたちには多分聞こえ方が違う事があると思うので、終わってからでもいいので、どうぞご遠慮なく、おっしゃってください。あと、曲で、今まで皆さんが来てすぐに歌える曲を選んでいるというところがありました。なかなか新しい曲を選ぶ機会がなかったんですが、岡田司教様がいらしてから、その時その時に、歌うにふさわしい曲を重視してオルガニストにもご指示なさることもある、毎回ではないんですが。そうすると、慣れない曲が入ってきたりもしますけれども、繰り返し歌えばそれで覚えるから、とおっしゃっているので、皆様方にもご協力いただきたいので、よろしくお願いいたします≫

岡田大司教:答唱詩編のことは当分今のままで続けます。本郷教会はカテドラルのような大きな教会でなくて、参加者も少ないので、これでいいと思っています。
それから、入祭の歌なんですけれども、同じ歌を何回か続けて、ほぼ歌詞は見ないでも自然に出てくるようにしたいと思っているんですね。それで、今日の歌は毎朝のミサでは毎日しているんですけれど、主日ではあまり歌っていないので、違和感があったかもしれませんが、週日と主日のミサのつながりをよくしたいと思っているので、すぐに覚えると思いますので、何回かこれでお願いします。今日の聖書の内容とも関係あるところでしたね。「来なさい、重荷を負うもの」ですね。

朗読について、前回も申し上げたのですけれど、最近わたしの耳が遠くなってきて、聴こえないのもあるんですけれど、司式者の席は聞き取りにくい場合が多いんですね。それで、朗読の練習をした方がよいのではないかと前から思っているんです。はっきり、ゆっくり。いきなり、言われても、どぎまぎしたり、急いで読んでしまったりするので、お互いに相手によく聞こえてているかどうか確かめながら、読むようにしたい。それから、読み方だけではない、テキストそのものが読み上げられただけでは聴いただけではわからない、という問題もあるんですね。でも、おおむね朗読はわたしが聴いてもよくなっていると思います。この、聖書と典礼があると、みんなこれを見ちゃいますので、目で読んじゃうから耳で聴くより、読む方が先になっちゃうんですよね。

≪ミサ中の歌のことなんですが、ミサの前に集まっている方だけでも、初めての歌だけでも、ちょっとさらっていただければもっと歌いやすいのではないかな、と思います≫

岡田大司教:ミサの前に、その日歌う歌で、歌い慣れていない歌の練習をする。それから、何週間か前にクレド、信仰宣言の日本の作ったメロディーを練習しましたが、ミサ中に信仰宣言を歌うようにしたいので、あれも、どっかで又、練習をしましょうか。使徒信条だけになりがちなんですよね。このところ、続けて使徒信条なんですけれど。ニケアコンスタンチノープル信条を歌うようにしたい。以前ラテン語の時代はほぼ自然に覚えたと思うんですが、毎週おんなじですから、自然に覚えちゃうんですよね。そういう事は今ないので、みんなが覚えるまで、朝、目が覚めた時にそれが浮かんでくるぐらい、歌いこみたいと思うわけなんです。

いろんなことがありますが、話し合ってよい典礼にしていきたいと思います。