カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「ファリサイ派と徴税人」
2019年10月27日
2019年10月27日、本郷教会
第一朗読 シラ書 シラ35:15b-17,20-22a
第二朗読 使徒パウロのテモテへの第二の手紙 二テモテ4:6-8,16-18
福音朗読 ルカによる福音 18:9-14
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
きょうも主イエスは一つのたとえを話されました。このたとえは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して言われた話であります。そして、きょうの福音朗読の結びは、
「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」と、なっております。
それでは、きょうイエスが伝えているたとえをご一緒に学んでまいりましょう。
二人の対照的な人物が登場します。
一人は、「ファリサイ派」の人、もう一人は「徴税人」であります。
ファリサイ派はたびたび福音書に登場する人物であります。
聖書をよく勉強し、そして、聖書が告げている掟を順守することに熱心な人々でした。「ファリサイ」とは「分離された人」という意味であり、律法を守らない罪人からは分離された清らかな存在であるという意味であると考えられています。
彼らは、本当にまじめに、すべての律法を守るようにしておりました。
本当に、うらやましいというか、感心するような人々であります。このファリサイ派の人と、イエスはたびたび衝突しているのであります。それはなぜでしょうか。
この「なぜ」ということが、イエスの宗教、わたしたちの信じているキリスト教の理解のために非常に重要だと思います。
さて、ファリサイ派の人は、「自分はこれこれこういうことはしていない、そして、こういうことを実行しております」と、胸を張って、神さまに報告し、そして、感謝します。ご立派です。
このファリサイ派の人には本当に感心しますが、問題があります。
それは、形式的には律法の掟を実行していたかもしれないが、しかし、「律法の精神」を本当に理解し、実行していたのであろうか、ということです。「全身全霊であなたの主である神を愛しなさい。」「隣人を自分のように大切にしなさい」という旧約聖書の掟を、彼はどのように理解し、実行していたでしょうか。
形式的に掟を実行しても、心の中で人を大切にする、尊敬するという心が無ければ、その律法順守は何の意味があるでしょうか。
このファリサイ派の人々は本当に、神の前に問題のない人であるのか、自分で自分が完璧だと思っていたかもしれないが、果たして神の前に全く清らかな問題のない人間であるのか…。
自分で自分を正しいとすること(自己義認)自体が問題であり、そして、他の人を見下すことがさらに大きな問題であると思われます。
他方、「徴税人」のほうはどうでしょうか。徴税人は人々から忌み嫌われ、自分自身も非常に引け目を感じていた人であります。
そのことを自覚していた彼は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪びとのわたしをあわれんでください』」
「自分は神の前に至らない者である。罪、咎のあるものである」ということを彼は、強く、深く自覚していたので、何も誇るものが無い。ただ、神さまに赦しを願うしかないということを、彼はよく知っていたのであります。
ところで、神が受け入れた人はファリサイ派のひとではなく、徴税人のほうであったと福音は告げています。神の前にこの、「義とされた」のはファリサイ派の人ではなく、徴税人でありました。
「義とされる」という言葉は、わたしたちの日本語の中では判りにくい、日常生活では使われることがありません。どういう風に言い表したらよいのか、いつも迷います。とりあえず、「神さまが祈りを受け入れ、そして、その人に問題があるにしても、それでもその人自身を、かけがえのない、愛する子どもであると認めてくだった」という意味ではないかと思います。
徴税人のほうは、すっかりもう、自分の問題を意識して自分の価値には全く目を向けようとしない自信喪失の態度です。ファリサイ派は神の前に堂々として自信に満ちた態度です。非常に対照的。どちらも極端ではないでしょうか。
わたくしがファリサイ派の人をうらやましいと思ったのは、「これこれのことはしていない、これこれのことをしていると胸を張って言える」ような自分ではないと自覚するからであります。
他方、徴税人のほうについては、あなたは自分のことを罪深いダメ人間だと思っているのだろうけれども、そういうあなたを神はそのままで受け入れ、愛してくださっているのですよ、と言いたい。
この神の神からの「よし」が福音の神髄ではないでしょうか。
神は正しい人、問題のない人をそれゆえに愛するのではない。問題があっても、不完全でも、過ちを侵す人であっても、あるいは、そうだからこそ、かけがえのない大切な人として認め、受け入れてくださるのであります。
そのような信仰理解こそがわたしたちにとって福音ではないかと思うのであります。