カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「不正にまみれた富」
2019年09月22日
2019年9月22日、本郷教会
第一朗読 アモスの預言 8:4-7
第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 一テモテ2:1-8
福音朗読 ルカによる福音 16:1-13
本日の主イエスのみことばをご一緒に分かち合いたいと思います。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。
どういう意味でありましょうか。
今日の話の中で、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とありますし、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とも言われました。
この言葉がわかりにくい。当惑させられるのではないでしょうか。不正をほめているのでしょうか。
そういう疑問を、わたしたちはもつのではないかと思います。
わたしたちは神様にお仕えしているのであって、富にお仕えしているのではありません。それはわかっていますが、なかなかこの言葉を徹底して実行できていないのも事実であります。
主イエスは、貧しいものとなられ、そして死にいたるまで天の御父に従順となられました。わたしたちも主イエスに倣うべきでありますが、いろいろなことに心を惑わされ、心を乱しています。いろいろな持ち物、いろいろな財産があって、そのことでわたしたちは心を労しているということも事実であります。富を持つことがいけないのではない。富に心を煩わせることがよくないのであります。自分たちの持っているものを、神への奉仕に生かさなければならない。神のために富を用いなければならないのであります。すべての地上の財産は、わたしたちに神から委ねられているのであり、わたしたちはいわば管理人であります。
管理人は管理を頼んだ者の意向に従って管理をしなければならないのでございます。
管理を任せた人、つまり天の御父は、わたしたちがそれぞれ委ねられたもの、その中にまず財産がありますが、それだけでなく健康とか才能とか、すべて良いものを与えてくださっているので、そういうものを、神様のご意向に従って生かさなければならない。貧しい人、苦しんでいる人、困っている人を助け、そして苦しみや悲しみを分かち合うために、用いなければならないのであります。
さて、それでも、この話はわかりにくいなと思います。この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのはどういう意味だろうか。不正といえば、主人からみたら不正かもしれないが、全体からみれば必ずしも不正ではない。それどころか、むしろほめるべきだという意見もある。
え?そうなのでしょうか。
以下は、ある考え方であって、参考にしていただければ結構です。この主人というのは、不在地主である。パレスチナでは、財産を持っていてそこには住んでいなくて、管理人を任命してそこから、貧しい人々から地代などをとりたてていた人いるのである。この不在地主は貧しい人から搾り取り、年貢を納めさせ、法外な利息を取り立てていた。日頃からこの主人のやり方に疑問を感じていた管理人は、自分に委ねられている財産を貧しい人のために使ってしまったのではないか、という説。そうかな、違うかな。
もう一つは、管理人は当然報酬があって、自分に委ねられた裁量がある。その裁量の範囲内で自分の取り分を減らして、或いは無くして、免除してあげて、そしてなんとか急場をしのいだ。主人には損害を与えない、自分に損害を与えるがそのほうがかえって自分のためになるのだ、という計算して、証文を書き換えたのであるという考えもある。そちらのほうが、ありそうな気がします。
さて、でもいずれにせよ、もう一つの言葉。この「不正にまみれた富」という、これも気になる言葉であって、ま、今はやりの、振り込め詐欺とかなんかで手に入れた富は不正かもしれないけれど、富というものは、地上においては何らかの、不正というと言い過ぎですけれども、何か垢がつかないものはあり得ない。問題はその富を何に使うのか、どう生かすのか、ということではないでしょうか。ですから、今日の福音で言っておりますことは、「不正にまみれた富で友達をつくりなさい。」友達を作るというのはどういうことなのだろうか。わたしたちは、自分が自由に使うことのできる財産、財貨を使って、友達を作る。どういう友達を作るのでありましょうか。神の国の友達、神の国に一緒に入るための友達、という意味でありましょうか。
さて、今日の福音と直接つながりはないかもしれませんが、第二朗読は非常に重要な教えを述べております。「神は、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられます。」そのために神は、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。すべての人が救われて、真理を知ることを望んでおられますので、すべての人が救われるように取り計らってくださるはずであります。地上のイエスに出会うことのなかった人達、それは人類のもう大部分、大部分どころか、ほとんどすべての人は、我々も含めて地上のイエスには出会っていない。しかし、ま、霊的な意味で出会っているのでありまして、聖霊の派遣を受けてわたしたちはイエス・キリストと出会い、イエス・キリストを知り、イエス・キリストの道を歩んでおります。
第二バチカン公会議は、教会憲章、そして現代世界憲章で、すべての人の救いの可能性ということを述べております。キリストに依らなければ救いはない、ということをわたしたちは信じておりますが、そのキリストによる救いは、聖霊によってもたらされるのであります。聖霊は、時間と空間を超えいつでもどこでも働いてくださる。この神の計らいに深く信頼して、日々わたしたちの務めを、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするという務めを果たしていきたいと願っております。