カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き「自分を憎んでいいのか?」
2019年09月08日
2019年9月8日、本郷教会
第一朗読 知恵の書9・13-18
第二朗読 使徒パウロのフィレモンへの手紙9b-10,12-17
福音朗読 ルカによる福音14/25-33
イエスは、大勢の群衆が自分について来られるのを見て、言われました。
自分の弟子になるためには、どうでなければならないのか、ということを言われました。
イエスの言葉を、わたしたちはどのように受け取ったらよいでしょうか。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、きょうだい、姉妹を、さらに、自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
「憎む」という言葉は、どういう意味でしょうか。おそらく、聖書の言い方では、わたしたちが使う「憎む」という意味とは違う意味合いが含まれていると思われます。
この『聖書と典礼』の脚注を見ますと、「憎む」は、ここでは「より少なく愛する」という意味になっております。「より少なく愛する」というのは、日本語の表現にはないので、どういうことなのだろうかと思うわけであります。
イエスは決して家族や、隣人をないがしろにして良いとは言っていない、それは明白なことであります。また、「モーセの十戒」の中に「父母を敬いなさい」という規定が、厳然としてそびえているわけであります。
家族や、隣人を大切にするということと、イエスに従うということとが矛盾するのでしょうか。矛盾するはずはないわけですが、どのように解釈をしたらよいのであろうかと…。
きょうの福音では、二つのたとえが出てきます。
「塔を建てる人の費用の計算」というたとえ。それから、「戦いに出かける(行こうとするとき)の準備」のたとえが出ています。
二つのたとえに共通して出てくる言葉は「腰をすえて計算する」あるいは、「腰をすえて考える」。
自分が計画していることを、実行するかどうか、ということを最終的に決めるために、「大丈夫だろうか」、「成功するだろうか」、「やり遂げることができるだろうか」と考えるわけです。それを「腰をすえて」考える、計算するという、表現で述べているのだろうと思われる。
そうすると、「イエスに従う人は、イエスに従おうと決心するときに、腰をすえて考えなさい」、そういう意味ではないかと思われる。どういう心構えが必要なのか…。
何か、その過激な宗教のように、家族を否定して、家を飛び出して、何もかもやめて、呼びかけに応えなさいという意味ではないだろう。教会の歴史の中で、このイエスの言葉をほぼ文字通り受け取って実行した人もいますが、全ての人が、自分の家族や、仕事・任務を放棄して、放り出して出かけてしまうということを期待しているわけではない、それは明白だろうと思う。
そうすると、どういう意味かということになります。一つ、二つ、考えられる解釈を申し上げて、皆さんにも一緒に考えていただきたい。
ひとつは、「より少なく愛する」ということですが…。
わたしたちは神からの呼びかけに応えなければならないわけです。さまざまなことをしなければなりませんが、「優先順位」というものがあります。わたしたちも、日々、意識してか、しないでか、なすべきことの中で「優先順位」をつけているわけであります。こちらより、こちらの方を選び、こちらの方を先にするということを選んでいるわけです。
ですから、「イエスに従う」という場合、「家族を大切にし、仕事をしながらイエスに従うという道」があるわけですが、家族を大切にすることと、仕事を誠実に行うということを、放棄するとか、ないがしろにするということではないはずであります。
それでは、どういうことになるのかと考えてみますと、「わたしがあなたに与える自分の十字架を背負ってついて来きなさい」いうことをイエスは言っています。
きょう、入祭の歌で「来なさい、「わたしの十字架を担って来なさい、「わたしの与える荷は軽い、負いやすい」と歌っていただいたのですが、イエスが与える十字架、あるいは重荷は軽い、負いやすい、その言葉を併せて考えて…。
「来なさい、「わたしのもとに来なさい、重荷を負う者。わたしはあなたを休ませる」と、そう、同じイエスが言われた。
きょうの福音だけを聴くと、「自分の家族を捨て」そして、さらに「自分のいのちでさえ憎まなければわたしの弟子になれない」と言われたので、全くもってそんなことはとてもできないというように思います。
「自分の十字架を背負ってきなさい」と言われたので、その十字架というのは何であろうか、「自分のなすべきことを放擲して、自分のいまの場所から出て、どこかに行って、イエスに従う、司祭になるとか、修道者になるとか、そういう道もありますけれども、通常、全員が司祭になるわけではないし、自分の置かれているその場所で、自分の置かれている状況の中でわたしの弟子になりなさい、それが、「わたしの十字架を担いなさい」ということと重なっているのではないだろうか。
「腰をすえてわたしに従いなさい」ということでもあります。そうすると、「腰をすえる」というのは、「いまの自分の立場で、さまざまな人とのかかわりの中で、自分が与えられている十字架を背負う」ということ、あるいは「重荷を負う」とは何であろうか…。
それぞれの人には、それぞれの課題があるようでありまして、ほかの人には代わってもらえない、その人が為すべき、その人しかできないことがあります。
きょう、みなさんそれぞれ「自分の十字架」、「自分の重荷」、「イエスが一緒に担ってくださる」、「軽くしてくださる重荷」というのは何であろうかということを一緒に考えてみたいと思います。
自分の思いに人を合わせようとすれば、自分の思い通りにしてもらえないから…、人生は思い通りにならないので、悩んだり、苦しんだりしますけれども…、それは、お互いのことであります。
自分の思いを捨てて、そして、人の問題や、人の欠点、人の問題を自分のこととして受け入れるならば、自分というものはそこから消えていくわけです。
これが、なかなかできることではないわけでして、十字架というのは、どこか遠くに行かなければ無いのではなくて、実は、毎日の生活の中にあるのです。
ですから、「憎む」というのは、自分の都合に合わせて生きている自分のいのちを否定して、人のために、それはイエス・キリストの生き方に倣って、神様がお望みの生き方を選ぶということだろうと思う。
そのことを第一朗読と併せて考えてみますと、「知恵の書」(9章17節)からの朗読でありまして、
「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれがみ旨を知ることができたでしょうか。」「人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」
神の知恵、それは聖霊によって示され与えられます。わたしたちが自分のものではなく、神のお望みを知り、神のお望みを行うことができますよう、そして、喜んで、自分の思い、望みを神のお望み、主イエスの生き方に適った生き方にす合わせることができますできますよう、祈り求めたいと考えます。