カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き 「狭き門」
2019年08月25日
2019年8月25日、本郷教会
第一朗読 イザヤの預言 イザヤ66:18-21
第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 12:5-7, 11-13
福音朗読 ルカ13:22-30
「狭い戸口から入るように努めなさい」という主イエスの言葉は何を意味しているのでしょうか。わたしたちは信じています。主イエスが、道であり、真理であり、命である。イエス・キリストによらなければ父のもとに行くことはできない。
ところで、「狭い戸口」という言葉ですが、わたくしにとって「狭い戸口」というと 「狭き門」ということばを思い出させられます。「狭き門」という有名な小説がございます。
「イエス・キリストに依らなければ天の父にたどりつくことができない」としますと、人は全てイエス・キリストという門を通らなければなりません。関所というところがありますし、ゲートというんでしょうかね、空港に行くとそこを通らなければ搭乗できない。けっこう狭いところでありまして、あっちからもこっちからも入れるわけではなくて、そこを通らないと、通過しないと、搭乗できないわけであります。そういう意味で、「狭い戸口」と言っているのでしょうか。
今日の朗読全体から考えてみますと、第二朗読では、「神は愛する子どもたちを鍛錬させる、鍛えられる」と言っております。今日の福音でも「狭い戸口から入るように努めなさい」この「努める」という言葉と「神からの鍛錬」、厳しい指導を耐え忍んで、受け取って、頑張って、イエス・キリストの救いにあずかるように努めなさい、という意味になるのでしょうか。そうだろうと思います。しかし、ま、それだけでは足りないような気がする。
人間は自分の努力で神の救いにあずかることができるのでしょうか。教会の歴史上、論争がありました。人間は神の掟を守り努力しなければならない。それは当然のことであり、それを否定することはできません。しかしそれでも、人間は自分の力で神の掟を完全に守り抜くことはできない、という体験も真実であります。その問題に多くの聖人は悩み苦しんだと伝えられています。聖アウグスチヌスという人がその代表者でありましょう。
使徒パウロは、復活したイエスに出会って非常に強烈な体験をし、イエス・キリストを異邦人に述べ伝える使徒となりました。そのときまで、パウロはファリサイ派の中でも最も熱心なユダヤ教の信奉者であり、律法を守り、且つ律法を守らせることに熱心でありました。しかし、復活したイエスとの出会いによって彼は新しい信仰理解に達したのであります。人は自分の力によって、律法を守ることによって、救いに達することはできないのだ。ではどうしたらよいのか。イエス・キリストを信じる信仰によって人は神の前に義とされるのである。この「義とされる」という言葉は、わたしたちにはわかりにくい。わかりやすく言えば、イエス・キリストを信じる信仰によってわたしたちは救いにあずかるのである。自分の力によって自分の救いをまっとうするのではなく、イエス・キリストを通して与えられる恵みを受けることによってのみ、わたしたちは神のいのちにあずかるのである。神の恵みを受けること、ただ単純に自分の弱さ、自分の過ちを認め、そして、神のいつくしみ、神の憐みに触れることによってわたしたちは神のいのちに導かれるのである。 そういう教えであると思います。
この教えが、広い入り口であるのか、狭い入り口であるのかは、その人がイエス・キリストがどういう人であるかと思うことにより違ってくる。自分の力で、自分の努力で、律法を守って救いに達しようとする人にとっては、イエス・キリストを信じる道は難しい道、むしろ視野にはいらない、非常に狭い道になってしまうのではないだろうか。
聖書のおしえ、聖書全体からこの問題をみると、例えば、ファリサイ人と取税人が一緒に神殿に上りました。あのたとえ話を思い出してみますと、ファリサイ人は神様に祈った。わたしはあなたの掟を守り、そしてこれ、これのことをし、自分の収入の十分の一を献金しています。隣にいる取税人のような罪深い者ではありません。神様に感謝します。そう祈った。取税人は、目を上にあげることさえせず、罪深いわたしを憐れんでください、と祈るだけでありました。どちらが、神の前に義とされたかというと、取税人のほうである、とイエスは教えています。わたしたちは、神の前に、どうしても罪を免れないものであるし、また弱い、もろいものであります。そのような自分に、神が、憐みを、慈しみを注いでくださり、そして神の前にご自分の子どもとして、自分の似姿としてわたしたちをかけがえのない大切なものとして受け取ってくださる。その信仰によって、わたしたちは狭い門を通ることができるのではないだろうか。
「心の貧しい人は幸いである」と山上の説教でイエスは言われました。自分の貧しさを知る人こそ神の恵みにあずかるのであります。
わたしたちが受け取った福音とはなんであるのか、自分にとって福音とはなんであるのか、わたしたちひとりひとり、皆さんひとりひとり、自分はなぜキリスト教徒になったのだろうか、
自分にとって福音はなんであるのだろうか、どういう教えに自分は救いを見出しているのだろうか。そのことを、この暑い2019年の8月、ゆっくり思い返し、黙想することはたいへん意味深いことではないだろうかと思います。(お知らせで8月31日、土曜日の小黙想会に言及する。)