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イエスの福音への招き 「必要なただ一つのこととは、イエスさまと一緒の向きで生きること」

2019年07月21日

年間第16主日C年 稲川 圭三 神父(東京カトリック神学院)

2019年7月21日(日)、本郷教会

第一朗読 創世記 18・1-10a
第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1・24-28
福音朗読 ルカによる福音10・38-42 必要なことはただ一つだけである

入祭のあいさつ

今日は年間第16主日を迎えています。第一朗読の創世記でも、福音書でも、お客さんをお迎えし、おもてなしをする、というテーマになっています。でも、そのおもてなしを越えて、本当に大切なのは神さまのことばを聞くことなんだよ、というメッセージになっております。今日、必要なただ一つのこと、神さまのことばを聞き、聞き従って生きるというお恵みに、この感謝の祭儀を通してより豊かにあずからせていただきますように、ご一緒にお祈りをしたいと思います。

そして、その必要なただ一つのことを、人にも伝えて生きるいのちとなっていきますように、ご一緒にお祈りをしたいと思います。

お 説 教

今日はルカの福音書10章、38節から42節というところが選ばれました。「マルタとマリア」の物語です。この物語は、実は四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、)のうち、このルカだけにしか出てこない短い物語です。

しかし、この物語は、どうでしょうか、わたしたちの生活に身近な題材なので、皆さんよく知っている話、有名な話と言ってもいいように思います。主人公が女性で、教会は女性の方がどうも多いようなところなので、自分の話、身近な話として聞かれていることが多いように思います。

「マルタ会」とかいう名前の会がある教会もあると思います。この教会のことは知りませんが、ありますか「マルタ会」…ない、ね?

どうも、この物語は何となく皆によく知られていて、活動的な人はマルタ型、お祈りの人のほうはマリア型というような形で、無意識に分類するようなところがあるかもしれません。

「○○さんはマリアだけど、わたしはマルタだから」というような言われ方をしたりいたします。

今日の福音で、

「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10・42)

という言葉があると、どうも二者択一のように思われてしまって、「活動」よりも「お祈り」のほうが大事なのだ、というような、そんな荒っぽい分類がされることがありますが、今日の福音は、そういう二者択一のことを言っていません。このことはもう少し後でお話いたします。

「必要なことはただひとつだけである。マリアは良い方を選んだ、それをと取り上げてはならない」(ルカ10・42)

とあります。「取り上げてはならない」という箇所は、正確に訳したら、それは「取り上げられてはならない」という、そういう意味です。「取り上げられてはならない」とは「人が取り上げることのできるようなものではない」という意味を持っていると思います。そしてそれは「取り上げられないだろう」「取り上げられない」とも訳すことのできる言葉です。そのことを少しお話しさせていただきたいと思います。

 イエスさまは、このマルタとマリアと友だちだったのですね。「イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(ルカ10・38)とあります。

この「家に迎え入れる」という単語は、新約聖書の中に二ヶ所しか出てきません。ルカによる福音書の中にしか出てこない、特別な単語です。マルタがイエスを家に迎え入れています。ルカの福音書の中で、もう一カ所、誰かがイエスを家に迎え入れる箇所があるのですが、どこなのか、わかる人はおられますか?(神父さまは、皆を見回しておられました:編者注)どうですか、どうですか?(笑)

 ザアカイです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」すると、ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(ルカ19・5-6)ここです。

 たぶんマルタもイエスを喜んで家に迎え入れたのだと思います。しかし、何かもてなしをしたい、これもしてあれもして、あれもしてこれもしてと「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(ルカ10・40)とあります。「せわしく立ち働いていた」はペリスパオーという単語が使われていて、ペリ(周辺に)とスパオー(引き離す)の合成語です。つまり、あるべき中心から周囲に向かって、いろいろなことのために引き離されてしまって、中心を失っているような状況をあらわす言葉です。

 漢字でもりっしんべんに亡くなると書いて、「忙しい」ですね。りっしんべんは「心」の意味ですから、「いろいろなところに心が分散して、中心、心を亡くしてしまうこと」を忙しいと言っているようです。

 一方、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた(ルカ10・39)とあります。

 まあ、イエスさまがいらしたとして、マリアはこの辺に座って、じっと話を聞いていたのですかね。(神父さまは説教壇から祭壇の前に移動して、体を動かしてマルタ、マリア、イエスさまの役を演じておられました:編者注)マルタと言えば、それを横目で見ながら、その前を何度も行ったり来たりして、もう我慢ができなくなって、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10・40)こういう風に言っている。(わたしが、あのこと、この事、たくさんの事を考えて一人でやっているのに、それなのに、このわたしの姉妹は座って話を聞いているだけで、何もしていない。手伝ってくれるように仰ってください)と言っているのです。

 それに対してイエスさまは

 「マルタ、マルタ」

と愛して言っておられるのです。

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだ」(ルカ10・42)

そしてそれは「取り上げられない」のだと言っておられるのです。

 それは、活動するか、祈るかという二者択一などではないのです。マルタはいろいろなことに思い悩み、あるべき中心を失っていました。一方マリアは、イエスの足もとに座って、その話に聞き入っていました。では、マリアが選んだ「よい方」というのは、「イエスの足もとで話に聞き入る」ということなのでしょうか。

 もしかしたらですけれど、この後、イエスさまはマリアに、「マリア。マルタがああ言っているのだから、あなたも行って一緒に手伝ってあげなさい」とおっしゃったかもしれないですね。そうすると、「イエスの足もとに座って話を聞くというポジション」「機会」は取り上げられたかもしれません。

 しかし、「取り上げられないただ一つのこと」が、マリアにはあったのだと思うのです。

 「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(ルカ10・39)という箇所の直訳は、「イエスの足もとに座って、み言葉を聞いていた」です。それが必要なただ一つのこと。

 「み言葉を聞いていた」・・・「み言葉」とは「イエスさま」のことです。単なる何かの情報ではありません。み言葉とは「人となられた神のみ言葉」すなわち「イエスさま」のことです。そして「み言葉を聞く」の「聞く」とは「聞き従う」という意味の「聞く」です。ですから、「イエスさまに聞き従って生きること」これが「必要なただ一つのこと」です。

 イエスさまはわたしたち一人ひとりと一緒にいてくださいます。このお方と一緒に、一緒の向きで生きることが「必要なただ一つのこと」なのだと思います。だからそれは、「活動するか」「祈るか」の二者択一なんかではないのです。なぜなら、イエスさまはまだ暗い内に、人里離れたところで、一人で祈られた方です。また同時に、大勢の人にパンを配り、満腹させたという活動をなさった方です。どちらか、などではないのです。

 み言葉に聞き従うとは、イエス・キリストというお方が、今日、全ての人の中に復活して下さっているという真実を認め、一人ひとりの中に、一緒の向きで生きておられるということを、そのことを一緒に生きること、それが「必要なただ一つのこと」なのだと思います。

 皆さん、イエスさまはどこにおられますか。どうですか?わたしは、すべての人一人ひとりの中に復活して、一緒の向きで生きてくださっているのだと思います。そんなことを知らない人の中にも復活して、一緒の向きで生きて下さっているのだと思います。キリスト者とは、その一緒にいてくださるイエスさまに「はい、わたしもあなたと一緒の向きで生きます」と言う者。それがキリスト者だと思います。

そうだ、駅の立ち食いそば屋がありますよね。そこでよく七味が置いてありますよね。唐辛子です。七味の缶には穴が開いているんです。蓋の外側と内側に穴が二ヶ所あります。普段は二つの穴は、ずれていますね。使うときにぐるっと回して、穴を重ねると出てきますよね。中の穴と外の穴がずれていたら、いくら缶に「七味」と書いてあっても、千回振っても出てこない。

 イエスさまがわたしたちの中に、一緒に生きようとおっしゃっておられるのに、わたしたちが「ふんっ」と横を向いていたら、キリストが出てこない。いくらキリスト者と書いてあっても、出てこない。唐辛子とイエスさまを一緒にしてしまってはいけないんですけれども。(笑)一緒にいてくださるお方と「はい、一緒に生きます」というところで生きて、中から一緒にいてくださるキリストが出てくるのがキリスト者なので、…まあ、ちょっと、たとえが悪かったですね。(笑) 

 必要なただ一つのこと、とはイエス・キリストのみ言葉を聞いて、一緒に生きることです。わたしは具体的には、イエスさまがしたように一緒に生きたらいいのだと思います。

イエス・キリストは何をなさいましたか。

イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれるお方でした。インマヌエルとはヘブライ語で「神が我々と共におられる」という意味です。つまり「神が我々と共におられる」という真実を人に告げて回った方なのです。「神さまが、あなたと共に、わたしにもあなたにも、一緒にいてくださるのだ」ということを、告げてくださった方です。だから、そのキリストと一緒に、わたしたちも、人に「神さまが、あなたと共におられます」と「インマヌエル」を祈ったらいいと思います。いつでも、いつでも、祈ったらいいと思います。

 そして同時に、イエスさまは弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と仰った方です。一緒にいてくださるイエスさまとは、ただ一緒にいるだけの方ではないのです。「一緒にいて」人に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と「人に言う人」なのです。だから、イエスさまと一緒に生きるとは、わたしたちが、一緒にいてくださるイエスさまと一緒に、人に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と祈ることではないかなと、わたしは、そう思います。

 そして、イエスさまは「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14・26)と言う方だから、わたしたちも人に「聖霊の交わりがあなたに豊かにあります」と祈る。これが、わたしが「イエスの言葉を聞き、それに従う」という「必要なただ一つのこと」の実践ではないかなと思います。

 他にも祈り方はあるかもしれないけれども、わたしは自分でそれをいつもするようにしています。

 人と会ったら「神さまがあなたと共におられます」と祈ります。

 電車の中でも、知らない人にも祈ります。

 「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と祈ります。

 知っている人にも知らない人にも祈ります。

 そして「聖霊の交わりが、あなたに豊かにあります」と、そう人に祈ります。

 生きている人だけでなく、亡くなった人にも祈ります。

 それを、一つ覚えでばかみたいにお祈りしています。

 4月から神学校で働いています。神学生の背中、一人ひとりに向かって祈っているんです。神学生にも、人に祈る人になってくださいとお話しをしています。

 必要なただ一つのこと、とはみ言葉を聞いてそれに従うこと。一緒にいてくださるイエスさまと一緒の向きで生きること。それをみんな、わたしたちは、ただただ、させていただいたらいいのではないかな、というのが、わたしが今思っていることです。

 そして、神が共にいてくださるという真実を否が応にもわたしたちに判らせるために、キリストはご自分のからだを、今日、わたしたちに(食べる人には)食べさせてくださいます。一緒に生きるために、食べさせてくださることを、新たに受取って、祈りたいと思います。
*稲川圭三神父ブログより転載させていただきました。http://blog.livedoor.jp/stella19/archives/51986022.html