お知らせ

典礼小講話 その1

2019年07月28日

 

聖霊降臨で誕生した教会の働き

 

参考*典礼小講話その1レジュメ

2019年6月9日、本郷教会 ペトロ聖堂 

 

皆さん、お忙しい中、お時間をとっていただききましてありがとうございます。今からほんの短い時間、典礼についてのお話。そこでいったん終了した後、こちらからは、一つのことだけ相談したいことがあります。

皆さんの方から出して頂けることがあったら、おっしゃって頂いて、きょう決めるか、あとで、どこかで決める、というようにしたいと思います。では、主の祈りを捧げましょう。—— 主の祈り ——

本郷教会とわたしは、以前から関わりが深く、こちらに月一回伺ってお話させて頂いたり、北文京宣教協力体主催の勉強会でも隔月だったか、かなり長い時間お話をしたりすることができました。

復活祭後に、浦野神父の後を継いで、本郷教会管理者に就任し、皆さんと一緒に教会の務めを行うことになりました。

こちらでミサを挙げながら感じたことは、「もう一度典礼について一緒に勉強したい」「勉強する必要がある」ということでございます。そして、具体的なこと、ミサの挙げ方、その他のことについて、お互いに共通理解がないこともあり、無理やり一緒にする必要はないのですが、大切なことで、お互いにどうかなと思っていることがありましたら、みんなで話し合って、ここはこうしましょう、というふうに決めていきたいと思うのであります。

 

きょうは聖霊降臨の日で、典礼の話をするのに非常にふさわしい日であると思います。そこで、本郷教会として、これからミサを始めとする典礼をみんなで捧げるにあたり、どういう課題があるのか、どういう問題があるのかということを、この小講話の後で、ご希望の方は残って話し合いたい、そう思っております。そして、こういうことを1年くらい続けたい。そのうち、何か生まれてくるのではないかと希望しております。

本来はミサに来る人全員に話したいのですが、それは無理なので、できるだけ説教をそういう内容と連動させたいと思い、(きょうもミサでも話しましたが)ご理解いただけたでしょうか。

さて、急いで作ったこのメモですが、一番最初からミスがあります。「降臨と典礼」ではなくて「聖霊降臨と教会」に訂正します。大切な「聖霊」が抜けてしまいました。最初からこういうミスで申し訳ありません。

わたしは、司教協議会が出した、日本の教会としての教えの本、『カトリック教会の教え』という教えの本の中の第二部を担当し、起草しました。第二部というのは「典礼と秘跡」という内容であります。その内容については、わたしが書いたので、わたしにとって親しみやすい。これを使ってお話したい。

典礼について、もっとよくできているいろいろな本があります。それぞれよいと思います。こちらの教会は非常に典礼のことに熱心だったと思います。ですから、その伝統をふまえ、改めてよい典礼をめざしたいと思うのであります。

きょう、聖霊降臨でありまして、聖霊降臨の日に、教会が誕生しました。そして聖霊降臨の日を期して教会が外の世界に向かって活動を開始したわけであります。その際、聖霊を受けて、聖霊の力、聖霊の働きによって弟子たちはイエス・キリストの教えを正しく、ふさわしく、告げ知らせることができるようになった、ということを強調しているわけであります。

きょうの聖霊降臨のミサの朗読はすべて重要であります。第一朗読は使徒言行録で、まさに聖霊降臨の場面そのものを告げております。ユダヤ人の宗教であったイエス・キリストの教えが、ユダヤ人という枠を超えて多くの民族、文化、言語の人に伝わっていく様子が描かれております。

そして第二朗読は、パウロの手紙、おそらくパウロの手紙の中で一番重要であるローマの教会への手紙であります。ここでは、説教でも申し上げましたが、霊に導かれた生活をするにはどうしたらよいか、ということを言っております。

そうするためにどうするかというと、大きく分けて二つあるかと思います。一人ひとりがよく勉強して、よくお祈りし、よく反省するという個人の問題。それから、共同体が一緒によくお祈りし、あるいはお互いに教え合い、助け合うということ。この両者は切り離すことはできません。

典礼というのは、共同体の行為であります。典礼という言葉は「レイトウルギア」leitourgiaという言葉でありまして、もともとは「公共の奉仕」「公衆の行う奉仕」「公衆のための奉仕」であって、本来、宗教的な意味はなかったのです。ギリシャ語です。ラテン語になって「リトルギア」Liturgiaとなり、英語では「リタジーliturgy」ということになったわけです。

日本ではどうして「典礼」という言葉になったのか、その辺は定かではないのですが、「礼拝・祭儀」を意味していまして、その「礼拝・祭儀」の代表が「ミサ」ですね、「感謝の祭儀」であります。

そして、「礼拝と祭儀」は「神への奉仕」と、それから「人への奉仕」の両方の面を持っているのであります。

イエス・キリストは、ペトロを頭とする弟子たちを養成し、地上を去って行きましたが、ご自分の務めを弟子たちを通して継続させ、延長させ、発展させました。

そこで、「地上に存在しないイエスがどうしてそういうことができたのか」というと、この、「聖霊の派遣」という「神秘」によるのであります。ですから、聖霊のはたらきが非常に大切です。

「父と子と聖霊」の神様を信じているのですが、日頃あまり、「聖霊」ということを意識しないかもしれませんが、実は、教会というのは「聖霊」が主体であって、聖霊は父と子から出る、と「ニケア・コンスタンチノープル信条」で述べておりますが、聖霊の働きであります。

その聖霊の働きにわたしたちがどれだけ忠実に、あるいは敏感に応じることができるか、ということが鍵になっているわけです。聖霊が働いても、わたしたちが聖霊の働きをきちんと受け入れなければ、わたしたちの中で聖霊の効果が出てこない、聖霊が働いているが、その働きをどれだけ受けとれているか、ということは、その教会共同体、そして個々の人がどのように生きているか、どういう風に歩んでいるかによって測られる、ということになるのでしょう。

教会の歴史を見ると、非常に輝かしいというか、つまり、神の栄光が本当によく表れていた場所、時代もあるが、腐敗、堕落し、本当に神様がどこにいるのか、というような嘆かわしい状況もあったと思われます。

でも、ありがたいことに、わたしたち教会には、いつもこの、改革というか、刷新ということが行われてきたんですね。必ず誰かが現れて、改革、刷新を叫ぶわけです。そういう人々の中に、「修道会」というのがあります。

カトリック教会は二本立ての組織で、ローマ教皇庁があって、そのもとに教区があって、さらに小教区がある。この「組織」が硬直化して、イエス・キリストの姿を現わせなくなることがたびたびある。そ        うすると、その周辺というか、関わってはいるけれど教会の中核ではない人の中から、本当のイエス・キリストの教えはこうだった、とか、こういうようにするように聖霊が勧めている、とかいうことを言って、そしてそれに賛同する人が現れ、「修道会」というものができる。あるいは、「宣教会」というものができる。そして、そのおかげで、教会全体が新しくなる。新しくなるのですが、何年かするとまた硬直化する、というのをくり返してきたのではないでしょうか。

今の教皇様は「イエズス会」出身で、イエズス会というのも、教会を立て直すために創られた会ですが、イエズス会の中から今までいなかった、初めての教皇ですね。他の会で教皇になった方はたくさんいますね。

 つまり、わたしたちの教会は、イエス・キリストをよく現し、伝えなければならないが、時としてその役割があやしくなったことがある。それは歴史上の事実ですね。

 それをプリントに引用しました。ここを読んで頂けると、よろしいと思います。

 

― 主は御父のもとに行かれましたが、教会は世にとどまります。教会はイエスの新しい現存、イエスの別離と恒久的現存のしるしとして…

― 時にはほの暗く、時には輝かしいしるしとして…とどまっています。

教会はイエスを延長させ、継続させます。実際、何よりそうしてこそ、教会は自分の使命を果たしている、と言えるし、また福音宣教者である、といえるのです。

 

これは最近列聖されたパウロ六世教皇の文書、『福音宣教』「エヴァンジェリイイ・ヌンチアンデイ」と言いますが、冒頭の言葉をとって「Evangelii Nuntiandi」福音を宣べ伝える、という言葉ですけれども、そのなかの15項というところにある、わたしがいろんな時に心に浮かんでくる言葉でありまして、「わたしたち教会がどれだけ忠実にイエス・キリストを現わしているか、イエス・キリストを生きているか」ということが鍵になると思います。

教会は2000年の間にいろいろな困難に遭い、だんだんキリストから離れてしまうということもありましたが、絶えず聖霊の働きを受けて、新しくよみがえるということをしてきたと思います。

 

 さて、わたしたちが聖霊の働きを受けて、新しくして頂くために大切な「お祈り」のことですが、お祈りというのは、個人がするお祈りと、一緒にするお祈りと二つあって、両方が必要なわけです。わたしたち一人ひとり、朝、昼、晩、お祈りをしなければならないけれども、一緒に集まってするにはあるルールがあって、勝手にばらばらお祈りするわけにはいかないので、それぞれの時代、それぞれの場所で、一緒にお祈りする場合はどういう順番で、こういうふうにやりましょうという「取り決め」をしているわけですね。

その取り決めの具体的な規則が、「典礼」の規則、ということになるわけです。それは、相対的なもので、その時代、その場所でこうした方がいいという風に決めますが、時代が移ると新しい必要に応えるために、必要な修正をすることになるわけです。

ですから、絶対にこれでなければならない、ということはないわけですが、できるだけ多くの人の心に響くように、多くの人に聖霊の働きが伝わるように、わたしたちは努力して具体的なあり方を変えていきたいと思います。

日本の社会も大変努力してきました。こちらの教会の主任司祭でいらした関戸神父は日本の教会レベルでの典礼の刷新のために働かれたかたで、日本という国、日本語で生きているわたしたち、日本語で生きている、というのは今日、少し不正確かもしれないですが、日本のカトリック教会は日本という場所にあるけれども、いろいろな言葉、いろいろな言語を生きる人が集まっていますので、日本語だけの典礼を考えるということは、今、適切ではないのですが、そういう課題があることは皆さま日々痛感していらっしゃるけれども、それはそれとして、わたしたちがせっかく貴重な時間を使って、集まり一緒にお祈りするのですから、その典礼というものが、「ああ、きょうも来てよかった、心が洗われた」とか、「やすらぎを感じた」とか、あるいは、「神様の力を頂けることができてよかった」とか、思って頂けるような、そういう内容にしたいわけですね。

そして、典礼というのは、みんなで捧げるもので、司祭がミサを挙げて、みんなは黙って参加して、拝聴して、献金してくれればいい、というものではない。みんなでやる。一方通行で司祭の一人芝居のような典礼というのは、昔はもしかしたらそういう風に思われたかもしれないが、それは根本的に典礼の精神に反するという反省があって、みんなで典礼を捧げましょう、ということになりました。しかし、みんなでするといってもなかなか大変です。だから、誰が何をしたらよいのかということをやはり、話し合って決めていかなければならないのであります。

 

そして、イエス・キリストという人は、「イエスはキリストである」という風にわれわれは理解しているわけで、「イエス」というのは人ですね、「ナザレのイエス」。「キリスト」は救い主で、その「イエスはキリストである」というのが、わたし達の信仰の根本にあります。難しい言葉で言うと、「イエス」という言葉は「人であるキリスト」で「人性」、イエス・キリストの「キリスト」という言葉は「神性」、「神であるキリスト」を現わしています。

最近の典礼、特にヨハネの福音でたびたび出てきますが、「イエスは誰であったか」と。生前のイエスについて、人々の理解はなかなか難しかったのですね。わたしたちには、もっと難しいはずなんですが、それが不思議に、皆さんあんまり問題にしない。

イエス・キリストは「救い主」、であることを信じている。それは、素晴らしいことだと思いますが。イエスの弟子自身、イエスが誰であるかということがなかなかはっきりしないが、言い出しかねる感じがあったようで、フィリポという弟子のことを思い出して頂きたいのですが、

「あなたはたびたび、天のお父さん、と言いますが、そのかたはどこにいるのですか、わたしたちに見せてください、そうしたら信じます。」見ないから、信じられない。

そこで、イエスは言ったのですね。「こんなに長くあなたがたとわたしが一緒にいるのに、どうしてそういうことを今さら言うのか」と。

「わたしを見たのは、父を見たのである」と。

「父がわたしにあり、わたしが父にいることをどうして信じないのか」と言われた。

それでも「う~ん」という感じだったのでしょうね。

イエスが復活し、それから聖霊を受けて、初めて、彼らはイエスの言葉の意味を悟った。ずっと後になって。

ヨハネの福音というのは四つの福音の中で四番目に成立した福音で、イエスが亡くなってから、(イエスが亡くなったのは、紀元30年)ヨハネの福音は90~100年の間だろうと専門家の言うことなんですが、60年くらい経っているわけで、それ以前にできた使徒の手紙、パウロの手紙とか、あるいはヤコブの手紙というのもありますが、ヤコブの手紙が、聖書の中で一番早い。わたしも最近、通読会をやっているので、わたしも勉強しなければならないから、解説を読んでみますと、ヤコブの手紙が一番早く成立したと書いてあり、そうなのか、知らないことが多いなと思いましたが…。

とにかく、福音書というのが後からできているわけですね。わたしたちは何となく誤解しているかもしれませんね。

新約聖書の配列が、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、それから使徒言行録、パウロの手紙、というようになっていますから、何となく福音書の後から使徒の手紙が作られた、みたいに思いますが、事実はむしろ逆なのです。

イエス・キリストが誰であるかということの理解は、次第に固まっていったわけであります。

ともかく、イエスのおっしゃることは、天の父がおっしゃることであり、イエスのされたことは全部父のみこころに従って行われたことである、という理解になったわけで、「イエスと父は一つである、わたしと父は一つである」と。

一つであるということですから、父のお望みになることを行い、お望みにならないことを行わない、という完全な一致があるわけですから、「ニケア・コンスタンチノープル信条」で「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神」と宣言しているわけです。

 イエス・キリストの場合は、人性と神性が「位格統合」していることを説明しているのです。「わたしと父は一つである」ということを「位格統合」という難しい言葉で説明しているのです。

 

さて、問題は教会です。教会の人のすること、教会の言うことが全部、神様のおっしゃることと完全に一致しているか、というとそうは言えないですよね。なにしろ、われわれは人間で罪人ですから、神様のことがよくわかっているわけじゃない。

わかってはいないが、一生懸命お祈りし、「神様、何をおっしゃっていますか」、神様がおっしゃることは聖霊を通して伝えられると、わたしたちは信じているわけですから、聖霊の働きをわたしたちは一生懸命聞いて、そして、今、2019年の世界に広がる教会において、聖霊は「わたしたちに何を語っているのか」ということを聞こうとしているわけです。

全世界共通の問題については、ローマ司教である教皇様がお話しになり、わたしたちはそれに従順に聞き従うのですけれども、日本の教会全体については、「司教協議会」というのがあって、日本の16の教区の司教が集まって、よく話し合って、日本の教会全体について、こうしようではないか、というように決めるわけです。

更に、教区が小教区に分割されているわけですが、東京のような状況、住居と所属の教区を一致させることができないので、ぞれぞれ、皆さん、どこかの教会に所属するわけですが、本郷教会という教会に来てくださる皆さんは、本郷教会としてこれからどういう風にしていったらいいだろうか、その信仰生活の中で一番大切な典礼、「ミサ」というものを、もっとよくしようとしているのです。

多くのみんなさんがミサに奉仕してくださっているわけですが、その人達の間の「基本的な共通の理解」がなければならないと思います。そのために、わたしはお役に立ちたいと思います。

 

これから更に、もう少し具体的にミサ自体についてとか、ご聖体についてとか、あるいはほかの秘跡についても少しずつお話したいと思うのです。きょうは聖霊降臨の日で、聖霊を受けたわたしたちがイエス・キリストを現わし、伝える、そして、イエス・キリストの教えの中心といえば、「愛」という言葉で表現されますけれども、そのイエス・キリストの教えを行うことができるために「聖霊を豊かに頂くことができますよう」お祈りしたいと思います。そして、それぞれわたしたちが、自分が聖霊の働きにどれだけ応えているかということを日々反省したいと思います。

 ミサ中の説教でも申しましたが、使徒パウロが言っていることは、「霊の導きに従って生きなさい、霊の導きに従っているかどうかは、その実りがあるかどうかによって判定されます」と。その実りというのは九項目で、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を生きているかどうか。

わたしも自分では、ちょっと何点くらいかはわからないですが、ひるむところがかなりあるんですけれど…。皆さんはどうでしょうか。

 —— アヴェ・マリアの祈り ——