カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き 「聖体」
2019年06月23日
2019年6月23日、本郷教会
第一朗読:創世記 14:18-20
第二朗読:第一コリント書簡 11:23-26
福音朗読:ルカ 9:11b-17
キリストの聖体の祭日を、本日、記念いたします。
イエスは、聖体の秘跡をお定めになりました。
「聖体」と日本語で言いますが、本来、「感謝」(Εὐχαριστία, Eucharistia) という意味であります。そして、「聖体」と言うと、「聖なるからだ」と書きますので、「からだ」は、パンの方をもっぱら連想してしまいますが、キリストのからだは、パンと葡萄酒の両方で表されているのであることを、今日、特に注意したいと思います。
今日の第二朗読、コリントの教会への手紙で、使徒パウロは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」という主の言葉を伝えています。司祭は、ミサのなかで奉献文を唱えるときに、「これをわたしの記念として行いなさい」といつも必ず唱えております。
「記念」という言葉は、非常に大切であります。わたしたちは、普通、「記念」と言うと、「昔起こった出来事を今思い起こし、そして祝う」という意味をおもに連想しますが、ミサの場合、この「記念」という言葉は、ἀνάμνησις[アナムネーシス]という言葉の翻訳でありまして、確かに、昔起こった出来事があったが、その出来事が今ここで再現される、その出来事の意味が今ここで実現している、ということを表しています。単に昔のことを懐かしく思い起こすということではない。今ここにその出来事が起こっているのであり、その結果である恵みをわたしたちは受けているのである —「記念」は、そういうことを思わせる言葉であります。
司祭の唱える聖別の言葉は、よく御存知のとおり、パンの聖別の言葉と、葡萄酒の聖別の言葉と、ふたつあります。
「皆、これを取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである」— 司祭がそう唱えると、このパンが復活したイエス・キリストのからだになる、とわたしたちは信じている。
「皆、これを受けて飲みなさい。これは、わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」— この言葉を教会の外の人が初めて聞くと、ちょっと驚くかもしれない。「血の杯」とか「契約の血」という言葉が含まれていますので、わたしたちの日常生活のなかでは、あまり親しみやすい言葉ではない —「なごやかな、おだやかな」とは言えない言葉ではないでしょうか。わたしたちは、ミサのたびに、その言葉を聞いており、唱えているので、もう特に違和感がないかもしれないが、改めてこの言葉に注目すると、「ああ、そういう言葉を使っているんだ」と、少し、今さらながら、驚きを感じるかもしれない。
この「血による契約」という言葉は、イスラエルの民の歴史と深く結びついております。わたしたち、日本列島で何年も暮らしてきた人間にとって、この表現はあまりなじみやすい言葉とは言えないでしょう。しかし、わたしたちは、そういう言葉で表されるイエス・キリストの宗教を受け取っているのであります。
わたくしが思いますに、この葡萄酒の聖別の言葉のなかで大切なのは — すべて大切ですけれども —「罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である」という、
罪の赦しを伝えるイエス・キリストの十字架を、わたしたちは、今ここで目の当たりにする。ですから、何よりもまず、わたしたちは罪の赦しを受けた者であるということを、思うべきであります。わたしたちはイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを与えられており、わたしたちは赦しを受けなければならない者であり、その赦しを受けている、ということを思うときであります。
そして、日々唱える主の祈りのなかで「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」と言っているのでありますから、罪の赦しを受けた者として、人の罪も赦すことができますように、と祈るときであります。
「記念」という言葉は、昔のことと思い起こし、懐かしいと思うだけでなく、今ここでイエス・キリストの恵みを受け、その恵みにふさわしく生きる決意を新たにすることであります。
五つのパンと二匹の魚の奇跡の話が、今日の福音であります。イエスの周りに集まった人は皆、貧しい人でありました。彼らのなかでは、たった五つのパンと二匹の魚しかなかった。しかし、その乏しい食物を喜んで分かち合うことによって、その恵みはどんどん広がり、多くの人々に伝わって行ったのであります。
わたしたちも、ここに集って、この日本という国で — 一億人以上の人が住んでおりますが — 人々の間に、イエス・キリストの恵み — 罪の赦し — を受けた者の感謝を伝えて行くことができるし、そうしなければならない、と考えております。