カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き 「聖霊降臨」
2019年06月09日
2019年6月9日(日)、本郷教会
第1朗読 使徒言行録2・1-11
第2朗読 ローマ 8・8-17
福音朗読 ヨハネ14・15-16、23b-26
きょうは、聖霊降臨の日でございます。
二千年前に弟子たちの上に聖霊が与えられましたが、きょうは、わたしたちは、その出来事を記念するとともに、きょう、わたしたちの上にさらに聖霊を与えてくださるようにお祈りします。
ナザレのイエスは神の国の福音を説き、ペトロをはじめとする弟子たちをつくりましたが、天の父のもとへとお帰りになりました。その時に弟子たちに約束をされたのであります。
「わたしが去ると、わたしは天の父から聖霊を受けて、聖霊をあなたがたに与えるであろう。」
その約束が実現した日が「聖霊降臨の日」、ユダヤ人のお祭りでいえば「五旬祭」、「五十日祭」という意味であります。
さて、この出来事はわたしたちにとって、どういう意味を持っているのでしょうか。
わたしたち教会は主イエス・キリストからご命令を受けています。
「全世界に行って、わたしの弟子をつくりなさい」
そういう命令を受けているのであります。
イエス・キリストの弟子とは、イエス・キリストのように生きる人であります。
弟子たちは生前のナザレのイエスといわれる人と生活し、行動し、親しくイエス・キリストを知ることができました。しかし、それでも十分に知ることはできなくて、イエスが亡くなって、そして、復活されたあと、復活されたイエスと出会って、初めてイエス・キリストの生涯の意味、生き方の意味を悟るようになったのでありました。
さらに、聖霊を受けて、弟子たちは知恵と勇気に満たされ、まるで、生まれ変わった人のようになって、世界中で、いつでもイエス・キリストをあらわし、伝えることができるようになりました。
教会というのは、すなわち、わたしたちが教会ですが、ある意味で、イエス・キリストの「体」であり、イエス・キリストをあらわし、延長し、継続させる団体であります。どうしてそういうことができるのかというと、それは、神の霊、「聖霊」を受けることによって可能になります。
パウロの手紙できょう読まれましたが、「神の霊によって導かれるものはみな、神の子なのです」と、パウロが言っています。神の霊によって導かれるならば、わたしたちは神の子であり、イエス・キリストの姿を現す、イエス・キリストの生き方を伝えることができるのであります。
そうは言われても、弱い、そして罪のあるわたしたちにそのようなことがどれくらい可能なのでしょうか。
イエスはわたしたちに、そうできるようにと、さまざまな「道」、さまざまな「手段」を残してくださいました。
その中で、おそらく、もっとも大切と思われることは、「ミサ聖祭」であり、ミサということばで代表される典礼、そして、種々の「秘跡」であります。この「ミサ」、特に「主日のミサ」は非常に大切であります。ミサにおいてわたしたちは復活された主イエス・キリストと出会い、イエス・キリストの声を聴き、そして、イエス・キリストの御体(おん からだ)をいただいて、よりキリストに似たものとなることができるのであります。
きょうの福音で、イエスは「弁護者」という名前の「聖霊」を弟子たちに与えてくださると言っております。
わたしたちは地上のイエスに出会うことはできませんが、聖霊の導きを通して、より親しくイエス・キリストを知ることができるのであります。そして、聖霊は、一人一人のこころに働きかけるとともに、わたしたち、この団体、グループに語って下さいます。世界に広がる教会、日本の教会、そして、東京教区に、この本郷教会に聖霊が注がれ、わたしたちが何をなすべきかを教えてくださり、そして、そのための力を与えてくださると信じます。
そして、それが可能であるのは、実に、「聖霊のはたらき」によるのであります。
そして、その聖霊は、確実に与えられるいろいろな機会の中に典礼があり、その典礼の中心が「ミサ聖祭」であります。繰り返しになりましたが。
きょうの第二朗読で、少しわかりにくい表現があると思います。
「肉」という言葉と、「体」という言葉であります。何か、「体」を否定するようにとられると、それは大きな誤解になります。「肉」という言葉と、「体」という言葉は区別される。自分の弱さ、もろさ、自分の限界を知り、ただひたすら神の恵みに頼って生きる人の生き方が、神の霊に導かれる神の子の生き方であります。
自分の力、自分の判断、自分の思いを中心に生きる生き方のことを、「肉の支配にあるもの」と、パウロは呼んでいます。
人間は他の人に対して、いろいろな思いを抱きます。人を支配したいとか、思い通りに動かしたいとか、人よりも上に立って、見下したいとかいうような思いにとらわれることがある。そういう思いが「肉の思い」であります。
「霊の思い」に従っている人は、どういう実りをもたらすのかということをパウロは述べております。
それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りであります。
聖霊の実りを豊かに受けることができるようお祈りいたしましょう。