カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き 「現代の緊急課題は何か」
2019年05月26日
2019年5月26日(日) 、本郷教会
第1朗読 使徒言行録15・1-2,22-29
第2朗読 黙示録 21・10-14,22-23
福音朗読 ヨハネ14・23-29
「聖霊降臨」の祭日まであと、二週間となってきました。
イエスは、世を去る前に、弟子たちに言われました。
「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
復活したイエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊を通して弟子たちを教え、導きました。聖霊の働きによって、ユダヤ人の世界からギリシャ人の世界、さらに、その外の世界へとイエス・キリストの福音は述べ伝えられたのであります。
その教会が最初に直面した大きな問題が、「割礼」ということでありました。「割礼」というのは何かというと、 神がアブラハムと契約した時の印であって、男子の性器に傷をつけるという、ちょっと解りにくいことでありますが、それを、すべてのユダヤ人は実行しなければならなかったのであります。
そこで、ユダヤ人でない人が、つまり、「異邦人」が、イエス・キリストの福音を信じて「キリスト教徒」になるときに、割礼を受けなければならないのか、受けなくてもよいのかということが大問題となったのでありました。
激しい議論の末に出た結論が、その必要はない、ということでありました。使徒たちは各地に手紙を送りました。
「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切、あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです」。
ここで、はっきりと使徒たちが自信を持って述べていることは、これは聖霊による結論であるということであります。その結果、使徒言行録が告げておりますように、イエスの福音は、ギリシャの世界から、さらに、その外の世界へと広がり、ついにはわたしたちの国にまで伝えられるようになったのでありました。
さて、聖霊は、十二使徒、そして使徒言行録の弟子たちにだけ働いたのではなくて、それから後の教会、わたしたちにも、この日本の教会にも、この本郷教会の信者にも、同じように働いてくださっているのであります。
最初の教会の大問題が「割礼」を受けなければならないかどうかということでありましたが、その問題は今は無い。それでは、今のわたしたちにとって何が問題であるのか。わたしたちは、様々な問題の中で、何を優先的に取り上げて、取り組まなければならないのでありましょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」とイエスは言われました。そして、さらに、イエスは(次の日曜は、「主の昇天」の祭日になりますが)天の父のもとに上るときに弟子たちに宣教の命令を残された。
「あなたがたは、行って福音を述べ伝え、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」
ですから、イエスがわたしたちに残されたご命令は、
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
そして、
「全世界に行って福音を述べ伝え、すべての人を弟子にしなさい」、ということに集約されます。
考えてみれば、この二つのことは、結局同じことになると思います。イエス・キリストの弟子とはどんな人であるかというと、それは、イエスが生きたように生きている人、少なくとも生きようと努めている人であり、イエスが弟子たちを愛して、命を捨てたように、互いに仕えあい、尊敬しあい、赦しあい、愛し合う人たちであるということでありまして、そうしているかどうかによって、イエスの弟子であるかどうかが判定されるということになるのであります。
これは、先週申し上げたのですが、さて、二千年前の教会にとって最大の問題が「割礼」ということでありましたが、今のわたしたちにとって、何が問題であるのか…、わたしがずっと、感じてきたことは、今のこの、日本の社会において、人々が精神的に、非常に行き詰っている人が多い。自殺する人もいれば、行方不明になる人もいます。肉体的に病気になる人はもちろんいるし、何の問題もないという人はいないかもしれないが、精神的に孤独である、そういう人たちのためにわたしたちは何をすることができるだろうか。この本郷教会が暖かい、潤いのある、安らぎのある交わりになるようにと努めてきましたが、まだ、道は遠いように感じています。
この広い世界の中で、たった一人でも自分のことを「唯一無比」の存在として、比べることのできない大切な存在として認めてくれる、受け入れてくれる人がありましたら、わたしたちはどんな困難があっても生きることができるし、ほかの人にも優しくすることができるのではないだろうか。わたしたちの中にそのようなイエス・キリストの生き方がどの程度実現しているのか、いや、実現していると思います。もっとその輪を広げることができますよう、祈りたいと思います。