カトリック本郷教会 > お知らせ > 岡田前大司教メッセージ > イエスの福音への招き 「灰の水曜日」
2019年03月06日
2019年3月6日7 :25 本郷教会
第一朗読 ヨエル2・12-18
第二朗読 二コリント5・20~6・2
福音朗読 マタイ6・1-6,16-18
第一朗読、ヨエルの預言で主は言われます。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」
四旬節は回心のとき、回心とは心を主なる神へ向けなおすことです。神はうわべの見せかけではなく、心からの悔い改めを求めています。
聖書を読むとたびたび「衣を裂く」という表現に出会います。強い心の動きを表す動作を示しているようです。 ヨエル書の言う「心を引き裂け」という表現は、見せかけではない心からの回心、心から悲痛な思いで神に立ち帰ることを意味していると思います。
今日の第二朗読からは次の言葉が強く響きます。
「神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
わたしたちは主キリストによって贖いの恵みを受けています。神との和解は、自分の力、自分の行いによってはできません。ただ主キリストに心を開き、キリストを通して与えられる神のいつくしみを受けることによってのみ可能となるのです。
今日の福音は毎年同じ個所、マタイ6章、「見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい」というイエスの教えです。
イエスは、人の「偽善」を咎めています。わたしたちは偽善という問題をもっていないでしょうか。心と動作の間にブレとか不一致はないでしょか。
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエスは教えています。
今日、灰を頭に受けながら此の点を反省したいと思います。
さて四旬節は特に「施し」ということが勧められます。施しという善い行いには、身体による善い行いと精神的な(spiritual)な善い行いがありますが、本来両者は一体となるべきものです。
身体的な慈善のわざとは、飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物をもたない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること、これです。
精神的(spiritual)な慈善のわざも忘れてはなりません。疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ることです。
四旬節、回心、祈りと黙想、節制、施しに励むことができるよう、聖霊の助けを願いましょう。