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[コラム]練達は希望を生む(ロマ 5:4)-聖霊に導かれ神の愛に生きる-

2022年05月22日

フランシスコ・ザビエル 天本昭好神父(本郷教会 主任司祭)

ご復活おめでとうございます。新型コロナウィルスのパンデミックが収束しないなか、3回目の復活祭を迎えました。コロナ以前の元の状態に早く戻りたいという願望と、このまま改善しない状況がつづくかもしれないという不安を持ちながらも、新たに洗礼を受けられた方たちとともに本郷教会をこれからも共同体としてかたちづくっていきたいと願ってやみません。ちょうど洗礼式の時に白衣とろうそくが受洗された方々に与えられているように、わたしたちひとりひとりには、どのような状況に陥ったとしても、神からの恵みが与えられていくことを確かめながら歩んでいきたいと願っています。

思い起こせば、2020年の2月からはじまったパンデミックですが、緊急事態宣言が初めて出された時はただただ暗闇の恐れに苛まれてしまっているかのようにさえ思えたものでした。そのようななか、途中ミサの中止を数か月間経験しながらも、教会が教会共同体としてこうしてあるのは、キリストのからだとして皆さんの善意に基づいた奉仕と祈りに支えられて今があることを忘れてはいけないことと主任司祭として強く心に留めています。

聖書が物語っていく数々の出来事もまた、今のわたしたちと状況は違えど同じ現実のなかで語られています。人は困難に出会うと自分の願望に基づいた未来に希望を置いてしまいがちになります。だけれども何人も未来を自分の願望どおりに創り出すことはできません。ビクトール・フランクルではないですが、与えられた状況の中に何を見出していくのか、その意味をしっかりと識別しながら歩んでいきたいものです。パウロはローマの教会への手紙のなかで次のように語っていきます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを、希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちのこころに注がれているからです。」(ロマ5:3~5:5)

日本語で「練達」と翻訳されているので、鍛錬と読みかえてしまいがちになります。しかし、英語訳聖書(NAB)では”character”と翻訳されています。ここから考えると「練達」という言葉は、その人が本来持っているものがあらわされていく有様と理解できるのではないでしょうか。言うまでもなく、わたしたちは洗礼を受け、復活したイエス・キリストとともに歩んでいます。わたしたちひとりひとりが、目に見えない根元の部分で復活したイエス・キリストに結ばれているからこそ、時として、敬虔さと謙虚さが足りないように思え、かえって罪深く俗物であるのかのようにしか振る舞えない「わたし」であったとしても、神の愛に生きている「わたし」として今を生きているのだということをあらためて思い起こしていきたいものです。新しい共同体の一員を迎えて、これからも本郷教会が信仰共同体としての意味を見失わずに歩んでいけますように。

(本郷教会会報『ケファ』317号 巻頭言より)