2021年04月28日
フランシスコ・ザビエル 天本昭好神父(本郷教会主任司祭)
ご復活おめでとうございます。教会は年毎に聖週間という典礼表現のなかで主の復活を祝い、教会は復活徹夜祭を一つの頂点として新たな一歩をふみだしていきます。昨年のように、完全に教会を閉鎖せずに、感染予防につとめリスクを認識しながら聖週間の典礼を行えたこと、そして何より良識的判断のうちに忍耐してくださっている方たちと教会を運営し典礼を行うために献身的に奉仕してくださった方たちがいてくださることに感謝しています。
ただ、今年は桜が比較的早く満開になったと思ったら、梅雨のような日がつづいているせいもあって、何か変だなという思いが心の隅に残っています。例年なら、復活の主日を迎え、新しく洗礼を受けられた方たちとお祝いをしていくなかで一年の節目を感じてるはずなのに、それもないという思いと、新型コロナウィルスの感染の波は未だ収まらず第4波がまた来てしまうという不安感が、心の隅っこの違和感をもたらしているのかもしれないと正直に思います。心のもどかしさを抱きながら歩いていくと、見ているはずの風景もぼんやりとしか眺められなくなるのでしょうか。そんな思いを巡らしていく中で、正岡子規の詠んだ歌が頭をよぎっていきます。
「たまたまに 窓を開けば五月雨に ぬれても咲ける薔薇の赤花」
正岡子規は皆さんがご存知の通り、病床にあっても歌を詠み続けていくことができた人です。思うようにならない日常の中で打ちひしがれることなく、力強い歌を詠んでいった歌人です。彼のこの歌は、どこか今のわたしたちにつながっていくかのように思えます。梅雨の薄暗くじめじめとした、どことなくモノトーンな情景に鮮烈な色を放つ薔薇の赤がとても印象的です。そこに正岡子規の人生に対する前向きな姿勢を私はこの歌から受け取りました。たとえ薄暗さの中に自らの身を置いたとして鮮烈な色を発するかけがえのないものがそこにあることを、何気ない日常の動作のなかでみつけていく歌のように思えます。
わたしたちが暮らしている世界がたとえモノトーンのような風景しかないように思えても、弟子たちが体験していったように、復活したイエス・キリストがともにいてくださることを思い起こしたいものです。受け入れざるを得ない日常のなかに薔薇の赤花が咲いているように、わたしたちには、わたしたちを導いてくれるみ言葉と、わたしたちを支えてくれる聖体の秘跡があることを忘れてはならないのでしょう。復活節のなかで読まれていく聖書箇所は、2000年前の遥か昔の物語ではなく、今を生きる私たちが時の隔たりを超えて体験していく復活したイエス・キリストとの出会いの物語となっていきますように。わたしたちは、パウロが遭遇したアレオパゴスの広場に集まった人々のようではなく、わたしたちひとりひとりが復活したイエス・キリストの証人として、今というこの時を歩んでいけますように。
(本郷教会会報『ケファ』315号巻頭言より)