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[コラム]「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

2020年10月10日

フランシスコ・ザビエル 天本昭好神父(本郷教会小教区管理者)

7月14日づけの司祭人事(第5次)で岡田武夫大司教様の後任として、本郷教会の小教区管理者に任命されました。どうぞ、みなさんよろしくお願い致します。

司祭に叙階したのが2007年の3月4日ですから、司祭職13年目となります。町田での3年の助任司祭からはじまり、北町、秋津、関口と主任司祭をかれこれ10年務めてきました。小教区管理者も、かつて北町に赴任していた時に経験しています。志村教会の当時の主任司祭である故コンスタン・ルイ神父様(パリ外国宣教会)が健康上の理由から退任され、その年の待降節から翌年の復活祭までの短い期間でした。かねてから、司祭として尊敬していたルイ神父様の後任として結構な重圧があったことも覚えています。同時に、志村のみなさんがともに支えあっていく姿は本当に教会の良さをあらためて教えてもらったことを記憶しています。今回も短い期間の間ですが、色々なことを皆さんから教わっていくことになるのだと気を引き締めています。

共同体を人数で考えてしまうと、大きい教会、小さい教会という表現になるのでしょう。志村での経験から言えば、教会共同体は人数ではありません。「キリストのからだ」として奉仕し支えあう中で共同体があらわされていくことを肌で体感したことは貴重な経験でした。今は新型コロナウィルス感染症の対策が叫ばれ、いのちを守る為に社会全体が「新しい行動様式」を求めて試行錯誤しているような状況です。ただ、私たちキリスト者はその根本にあるものを忘れてはならないと思っています。それは、わたしたちのど真ん中にイエス・キリストがいてくださることに他なりません。どんなに考え方や社会的な立ち位置が違ったとしてもキリストに一致していれば、ともに歩んでいくことができるからです。たとえ、感染リスクの観点から集まることができていない状況であっても、ともに支えあうことができるように願ってやみません。当然のように教会に来ることができる人の数は以前に比べれば断然少ないのでしょう。数量的なことに一喜一憂してもなんにもなりません。
哲学者の鷲田清一さんが連載している「折々のことば」というコラムが朝日新聞朝刊にあります。そこで、いつだったか、歌人の俵万智さんの歌が紹介されていました。
「発症者二桁に減り良いほうのニュースにカウントされる人たち」
これを受けて鷲田さんは次のように書いています。「誰かの死は一つの死として、別の誰かの死と比較も計量も交換もできない。が、人は知らぬまにそういう生の地表を立ち去り、死を上空から数える側に回っている。」

不安や恐れから八方塞の状況になった時、わたしたちは判断の基準を数量だけに求めてしまうのかもしれません。教会は数量ではなく交わりの質が求められていると思います。もちろん様々な場面で、意見の食い違いもでてくるかもしれません。そうしたとき、わたしたちの、ともに考え、ともに行動し、ともに祈り分ちあっていく姿勢が、共同体の根幹にある交わりの質を高めていくことになるのでしょう。
本郷教会が共同体として真にその働きを果たすことができますように、私も微力ながら小教区管理者として職務を果たして参ります。

本郷教会会報『ケファ』313号 巻頭言より