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[コラム] 「しかし、にもかかわらず」

2017年10月30日

 フランシスコ・アシジ 古郡 忠夫神父 (本郷教会協力司祭)

今年は1517年の10月31日にマルティン・ルター(Martin Luther)が「95箇条の堤題」をヴィッテンベルク城の教会の扉に打ち付けた、いわゆる「宗教改革」から500年という節目の年になっています。11月23日に日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会共催の「平和を実現する人は幸い」というシンポジウムと合同礼拝が長崎の浦上天主堂で開催されるのをはじめ、日本でも多くの記念行事が計画され、また行われています。カトリック東京大司教区においても、3月の司祭月例集会の中で、この記念の年についての研修が行われ、「平和を実現する人は幸い」シンポジウムを準備しておられる日本福音ルーテル教会事務局長白川道生牧師がこのシンポジウムの計画概要を丁寧にお話しくださいました。

白川牧師のお話の中で、印象に残ったのは、ルーテル教会にとって、この宗教改革500年は祝いではないのだという言葉です。分裂という事実を抱えた教会にとって、それは祝いではあり得ず、あくまでも記念として、今私たちに何が求められているのかを考えることが大切だと感じているとお話くださいました。

500年前ドイツで、当時34歳の若者、アウグスティノ会士ルターという人が、教会のいくつかの部分はおかしいと声を上げて、そして力づくで教会に抵抗したわけで、実際に当時の教会は、イエスが最初におつくりになった教会とちょっと違ってしまっていたのだと思いますが、力づくで教会に反対した結果、教会は分裂するという悲しい結果になってしまったのです。

分裂という傷を抱えたまま、わたしたちは500年を過ごして、しかし50年前、第二バチカン公会議を機に再びカトリック教会とプロテスタントルター派の教会の一致の機運が高まって、そして2013年「争いから交わりへ」という共同文書が出されたのでした。その文書の中で、わたしたちの信仰の中心部分は何一つ変わらない、わたしたちはともに平和を願い、一緒に祈ることができるのだと確認されて、今では世界に一致のシンボルのようにともに歩む姿を見せることができるようになったのでした。

分裂という悲しい現実、不都合な現実がある、でもその先にやっぱり神様の大いなる働き、力ある御手のわざがある。神様の大いなる働き、力ある御手の働きに信頼して、粘り強く愛を生き、対話を通して平和を実現しようとした人たちがちゃんといた、それをわたしたちは今年のこの月、強く受け止めたいのです。

わたしたちの中にも人間的な弱さが引き起こす不一致があります。これからの人生の中で、嬉しいことだけではなくて、大変なこととぶつかるときもあるのだと思います。思いがけず、人とぶつかったり、思いがけず自分の都合に合わない出来事と出会うときもあるかもしれません。でも、どんなときにでも神様につながり続けることが必要なのです。神様は見えませんけれど、ずっと一緒にいてくださるのです。皆さんが涙を流すとき、神様もいっしょに泣いてくださっている。そして、必ずその涙は喜びの涙に変わるのです。

悪の力、サタンのわざは、人を恐れさせ、諦めさせ、絶望させ、神様から引き離すこと。悪の力は強いです。しかし、にもかかわらず、それでも神様の御手に委ね、神の国の実現のために働いていく。しかし、にもかかわらず、それでも愛を生きていく。

宗教改革から500年。神様の愛の霊とともにあって恐れに打ち勝つ教会のメンバーであるわたしたちが、どのようにこれからを生きていくかが、今問われています。

本郷教会会報『ケファ』 302号 巻頭言より