2025年06月08日
主任司祭 パウロ 小池亮太
婦人たちは、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは「誰が墓の入口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコ福音書 16 章 1〜6 節)
今年もカトリック教会は復活祭を祝い、二千年以上前から宣言されてきた「十字架につけられたイエスは復活した!」という言葉が世界中で交わされました。
さて、イエスの葬られた墓の入口は「非常に大きな石」で塞がれていたとマルコ福音記者は記していますが、現在の世界には「戦争」や「災害」という「大きく重い石」が人々の希望を塞いでいます。また、一人一人の人生という旅路も「争い」や「憎しみ」という石が塞ぎ、その最後は「死」という巨大な石が塞いでいるようにみえます。だから、私たちもイエスの墓に向かっていた婦人たちのように思い巡らします。「誰がこの石を転がしてくれるのだろうか」。
ところが、墓へ行った女性たちは驚くべき発見をします。巨大な石はすでに入口のわきへ転がしてあり、入ってみると墓の中は空だったのです。この空の墓から、人には決して開くことはできない、神にしか開くことができない「新しい道」が始まりました。その「新しい道」とは、死を突き抜ける「いのちへの道」でした。しかし、現代世界においては、「いのちへの道」だけでなく、戦争を突き抜ける「平和への道」、憎しみを乗り越える「和解への道」も必要です。
「復活したイエスはキリストであり、キリストだけが『いのちへの道』を塞いでいる死という石を取り除く力を持っている」と教会は信じています。しかし『平和と和解への道』を開くのは人間です。『平和と和解への道』を開くには「ゆるし」が必要です。「ゆるし」がなければ、「非難の応酬」という石、「常に私は正しく、他者は間違っているという頑迷さ」という石を取り除くことはできないからです。だから、復活したキリストは、私たちにゆるすための力を与えて、様々な大きさの石を取り除いて道を切り開くように望んでいます。
今年も、イエスの復活を祝う日に、「死という石が取り除かれた」こと、「あらゆる限界と弱さを乗り越えてゆるすための力を与えられている」ことを教会は思い起こします。そして、世界各地で戦争や災害の影響を受けている人のため、また、困難によって人生の旅路が塞がれてしまっている人のために、「イエス・キリストの助けによって大きな石がわきに転がされ、希望の道が開かれるように」と教会は祈り続けていくのです。
(「ケファ」320号 巻頭言)