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[コラム]「何をすればよいでしょうか」(マルコ10:17)

2021年10月31日

フランシスコ・ザビエル 天本昭好神父(本郷教会主任司祭)

わたしたち東京教区の教会はパンデミックの嵐の中、昨年に続いて教会のミサを自粛せざるを得ませんでした。ようやく感染者数も減少傾向になり、再開することができるようになりました。この期間、皆さんのご協力とご理解に感謝したいと思います。ただ、昨年の経験を踏まえれば冬に向けて再び感染者の増加も予想されています。感染の不安がつきまとうなかで、長期間にわたってこの新型コロナウィルスに社会全体が翻弄されつづけていくことに慣れてしまって気が緩みがちになるのも仕方ないかもしれません。

そうしたなかで、教皇フランシスコの呼びかけで、2023年のシノドスに向けて、10月17日からシノドスの開催に向けた歩みが全世界のカトリック教会ではじまります。「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」というテーマでそれぞれの教区で準備をしていきます。このシノドスの歩みを象徴している言葉が「シノダリティ(Synodality)」という言葉です。教皇フランシスコはしっかりと定義づけられた言葉を用いるよりも、新しい造語を好んで使われる印象があります。この「シノダリティ(Synodality)」という言葉も、もしかすると、従来の在り方で満足することなく、その言葉の意味をわたしたち自身がしっかりと肉付けしていくことを期待する意図があるのかもしれません。出来上がってしまった概念で説明されてしまうと、これはこういうものだという一義的な理解で他人事のように受け流してしまうこともあるでしょう。かえって、新しい造語を用いることで、その意味することを探そうしていく営みを教皇フランシスコはわたしたちに期待しているのかもしれません。

先日の年間第28主日の福音朗読(マルコ10:17-30)で、イエスのもとに走り寄り「善い先生」と呼び掛けていく金持ちの人とのやりとりが語られていきました。金持ちのある人は「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10:17)と問いかけていきます。イエスはその人に対して持っているものを売り払い、貧しい人々に施してからイエスご自身に従うように勧めていきます。けれども、彼は財産を持っていたがために悲しみながら立ち去ったことが記されています。

自分が築き上げてきたもの、持っているものをすべて捨ててしまうことと同じように考えるならば、自分には無理だと考えてしまうのは、なにもこの福音の金持ちの人だけではないでしょう。そこには捨ててしまったら、何も残らないという思いがそこにあるのは言うまでもありません。しかし、イエスはわたしたちが握りしめているものから解き放たれていくなかで、イエスによって新たに与えられていくものがあることを暗に伝えているのでしょう。

この福音と、これからはじまるシノドスの歩みを重ね合わせて考えるならば、教会がコロナ以前の既成の枠組みの中で、知らず知らずのうちに握りしめたものを解き放ち、ともに歩む中で見出していく営みに、イエスに従って歩んでいく、わたしたちの姿があるのかもしれません。どのような歩みになるかを今から想像できるようならば、それは既成のものの延長でしかないでしょう。

シノドスの歩みを通して、新型コロナウィルスという目に見えない恐れによって分断されてしまっているかのように思える世界が、目に見えない愛と信頼で彩られていく世界へと築き直していくことができますように。

(本郷教会会報『ケファ』316号 巻頭言より)