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イエスの福音への招き「光の武具を身につけましょう」

2019年12月01日

待降節第一主日A年

2019年12月1日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ 2.1-5
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ13・11-14a
福音朗読 マタイによる福音 マタイ24・37-44

説教

待降節に入りました。本日の福音朗読と聖書朗読から何を学ぶことができるでしょうか。
マタイによる福音は「目を覚ましていなさい。」とわたしたちに呼びかけています。
第一朗読イザヤの預言は「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」と結ばれています。
第二朗読、ローマの教会への手紙におきましては「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。」と述べられています。

目を覚ましていなさい。
光の中を歩みなさい。
光の武具を身につけなさい。

同じことを言っているのではないかと思います。
わたしたちは毎日いろいろなことで忙しい。わたしたちの心も頭もいろいろなことに一生懸命になって、ならされて、神の声を聞いたり、神の光を見たりすることが難しくされているのではないだろうか。
わたしたちの毎日の生活で体験しますが、心がそこにないと、見ても見えないし、聞いても聞こえない。 いろいろな心配事やいろいろな関心が心をいっぱいにしていると大切なことがわからなくなる。すぐそばにあるのに見えない。わたしは何か捜し物が多いんですけれど、すぐそばにあるんですけれど気がつかない。それくらいならまだよろしいが、人生にとって非常に大切なことが見えていない。或いは、生きるために本当に必要な導きが見えない。

わたしたちの人生は旅であります。神様のもとに向かって歩んでいる。道しるべが必要であり、道しるべは与えられています。しかし、夢中になっていると、何かほかのことに夢中になっていると、道しるべが見えない。毎日するべきことは、きちんとしなければなりませんが、自分のしていることが何のためであるのかということが、この待降節に確認する必要がないでしょうか。

今日の主日の福音朗読は、光ということが共通の大切な言葉ではないかと思う。光を見る、或いは神の言葉を聞くということが、わたしたちの信者の生活で非常に大切ではないかと思います。
「あなたがたは世の光である。」(マタイ5・14)とイエスは言われた。既にわたしたちは世の光になっているのであります。しかし何かのことで自分が世の光であることを忘れてしまうことがある。

教皇フランシスコは、遠いアジアの一番端のほうにあるわたしたちの国にまで来てくださいました。そして何を感じ、何を思われたでしょうか。
いろいろな機会にお話しくださいました。広島、長崎を訪問されて、核兵器がどんなに残酷な結果をもたらしたのかということを、身に沁みて感じてくださいました。核兵器を使うことはもちろん、持っていることも罪悪であると言ってくださいました。
ローマへの帰路、飛行機の中の記者会見では、原子力発電についてもおっしゃってくださったようで、核兵器ほどはっきりではないが、原子力発電も危険なものであれば、使用をしない。或いは廃棄するべきであると思うと、言ってくださったようであります。
そして、東京ではカテドラルと東京ドームでわたしたちに話してくださった。

この教皇フランシスコの来日と発言は、いわばわたしたちの心を照らす光であると思います。ご高齢の教皇様が非常にきつい予定をこなされて、わたしたちのためにこのような発言をして下さった。大変有り難いことで、何を言ってくださったのかを心に沁みて受け取らなければならないと思う。特に、若い人に言われたことはわたしの心に強く響いております。この社会は、日本の社会は、日本だけではないが、競争と消費の世界である。競争することが第一になっている。人に負けないように頑張りなさい。それからいろいろなものをどんどん消費して経済効果を上げることが国を発展させるために必要だ。そういう考えによってこの社会が成り立っているのではないか。その結果、この社会の成り立ち、社会を支配している原理から外れてしまう者は、生き甲斐をなくされてしまう。競争ということは、勝つ人もいれば負ける人もいるわけです。一番がいればビリの人も出てくる。消費もそうです。どんどん物を使って捨てないと、新しい製品を作って売ることができなくなる。どんどん作り、どんどん使って捨てなさいという、そういう社会ですと、人間は物を支配するためにあるのに、物が人間を支配しているような状況におかれている。

子どものときから頑張りなさいといわれて頑張りすぎて、疲れ切ってもう生きている意味が見えない、わからない。そして自分以外の人は競争相手ですから滅多なことがいえない、そういう気持ちになって非常に孤独である。疎外されている。孤立している。そういう状況で人は生き甲斐を失い、自死・自殺に追い込まれたり、或いは自分の場所がみつからないので、どこに居ても負け組ですから、そういうことのない世界はどこだろうか。とにかく今いるところを出て、どこかをさまよう。蒸発するというか、家出をするということが、起こる。
日本は自殺者の多い国であります。何年前でしょうか、東京教区がお世話になっているケルン教区を訪問しましたときに、日本は毎年3万人以上の人が自殺しています、ということをわたくしが申し上げたら、ちょっと外国語の数の数え方が難しいので一桁間違えたんじゃないかと、3千人ではないでしょうかということを言われましたが、3万人、なんですね。
政府を始め各方面の努力で自殺者の数は減ってきました。これは大変うれしいことでありますが、しかし依然として2万人以上の人が死んでいますし、若い人の自殺は減らない。かえって増えている。子どもも自殺している。そういう状況で、人は必ず死ななければならないのだから急いで死ぬことはないのに、もう生きていく力がなくなってしまう、そういう状況があるということを、フランシスコ教皇は察知して、そういう社会は早く変えていかないといけない。

わたしたちは神様からいただいた恵みを他の人と分かち合うためにこの世に遣わされたのである。喜びも悲しみも苦しみも楽しみも、共に分かち合うことによって生きていく喜び、生きていく張り合いが生まれてくるのではないだろうか、と。
今の生活、大都会は特にそう、大都会だけでなく田舎でもそうなんですけども、隣の人との接触が非常に少ない。
「孤独死」、隣の家の人が死んでいても何日も気が付かないという状態が不思議でないようになっている今の社会であります。そういう状況の中で、本当に少数者、日本のキリスト者は、人口の1パーセント。1パーセントの中でも我々はそのまた3分の1なんですよ。ということは、0.3パーセントくらいですね。0.3パーセントでも数は問題じゃない。その人たちがキリストの光をともす光、世の光となっていれば、周りを照らすことによって神の恵みを人々にあらわし伝えることができるのであります。

あなたがたは世の光である。
目を覚ましていなさい。
光の武具を身にまといなさい。
主の光の中を歩もう。

今日の福音聖書朗読をしっかりと心に刻むようにいたしましょう。