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典礼小講話その2 

2019年09月08日

 「記念と按手」

2019年7月14日、本郷教会 ペトロ聖堂

レジュメ2

講話

前回、教会は聖霊降臨という出来事によって誕生し、そして、教会の働きの中で典礼という事が非常に重要です、とお話ししました。典礼という言葉はleitourgiaという言葉、英語だとliturgyですけれども、この「公共性」ということが重要な概念で、つまり、個人と団体の中で我々が一緒に行う礼拝、祭儀が典礼です。
「典礼」というのは、元々、教会の外にあった言葉ですが、教会が取り入れて、教会が行う礼拝・祭儀を指す言葉に変えてきたわけです。
イエス・キリストは地上の生涯を終えて天に昇られましたが、聖霊を注いで、教会を創設しました。教会は広い意味での秘跡でありまして、復活したイエスがおられるしるしであります。
イエスは「わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたと共にいる」と言われましたが、それは第一に、秘跡を通して人々にご自分を現わし、ご自分との出会いを実現させてくださるということです。
教会は、ここにキリストがいる、ということを常に証ししなければならない。そういう話を前回したと思います。

今日は同じことを更に言い換えることになります。
イエス・キリスト。「イエス」という場合は、「ナザレのイエス」と言われるように、ナザレで生涯の大部分を過ごし、最後の2,3年、宣教活動をした、イエスという一人の人、男性を指しています。「イエスがキリストである」という時の「キリスト」は時間と空間を越えた存在。今日の第二朗読で「イエスは宇宙万物の王であり支配者である」と言われていますが、キリストはすべてをつかさどっている存在である、という信仰であります。

 さて、生前、イエスの弟子たちは、イエスがたびたび天の父についてお話ししたのでありますが、我々と同じような疑問を持ったようで「あなたはたびたび天の父ということをおっしゃいますが、わたしたちにその御父を示して下さい、そうすればわたしたちは満足します」と言っています。それに対して、イエスは「わたしを見る者は父を見るのである」と、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と、イエスと天の父は一体であると言われました。さて、それは地上のイエスの言葉ですが、イエスが地上を去ってしまった時どうなったかというと、ご自分の使命を教会によって、教会を通して、教会において、継続させ、発展させる、どうしてそれが可能かというと「聖霊の派遣」によるのであります。ですから、わたしたちは、聖霊の時代を生きていると言えます。「父と子と聖霊」を信じているわけですけれども、教会は “目に見えないキリストの目に見えるキリストの働き” をしているわけです。

ただ、イエス・キリストの場合、彼の言葉、彼の行いは完全に天の父の言葉であり、行いに一致した、これ完全なのですね。完全であるということを我々は信じているわけです。ただ、教会はそうはいかないわけでして、まあ、教会というか教会のメンバーは、我々のことですから、不完全な罪人にすぎませんので、イエス・キリストと完全に一致はできていません。しかし、そのような不完全な人間を通してイエス・キリストがご自分の任務を遂行して下さるという信仰を持っているわけです。で、目に見えないキリストが我々教会を通して見える働きをする時に、代表的なキリストの働きとして、「秘跡」というものがありまして、秘跡は、言葉としるしによって行われます。秘跡の代表は、カトリック教会では7つの秘跡にしぼりました。他の教会では7つ認めていないところもあれば、あるいはもっと広げているところもあるのかもしれませんが、わたしたちの場合は7つ。7つは3つのグループに分かれます。入信の秘跡:「洗礼」、「堅信」、「聖体」。それから、癒しの秘跡:人々を癒す為の秘跡は、「赦しの秘跡」と「病者の塗油」。それから、奉仕の秘跡:共同体に奉仕する為の秘跡は、「叙階」と「結婚」。
そして、7つの秘跡の中心にある秘跡の中の秘跡と言われる秘跡が「聖体」でございます。

 さて、以上を前提として、2つの重要な言葉がございます。ミサの時にこの言葉が非常に重要な働きをしています。「エピクレーシス」と「アナムネーシス」。なんか、ギリシャ語で恐縮ですけれど。
ミサの時に奉献文の時に司祭は、パンと葡萄酒の上に手を差し伸べて聖霊の働きを求めて祈りを献げます。「聖霊によってこの供えものをとうといものとしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と言いますね。この、聖霊の働きを求めて按手することが「エピクレーシス」と言いまして、だから、司祭個人の力ではないですね。司祭を通して聖霊が働く、という信仰なのですね。人間に過ぎない司祭にはそういう力はない、ただイエス・キリストによって特定の人の特定の言葉、特定の動作を通して、聖霊が働きます。この、パンと葡萄酒がイエス・キリストの御からだと御血になります、と信じているわけですね。
それからもう一つは、記念。ギリシャ語では「アナムネーシス」と言いますが、記念。記念は以前おこったことを思い出してお祝いするという以上の意味を持っています。「今、ここで実現する」という意味なのですね。今、ここで。今、ここで、ね。「今、ここ」っていうのは、いつでもどこでも言えることなのです。地上のイエスは特定の場所、特定の時間にしか存在できなかったけれども、このアナムネーシスということによって、これも聖霊の働きで、今ここに、明日も今ここに、明後日も今ここに、イエス・キリストの過ぎ越しの神秘をここに実現することができます、という考えなのですよね。ですから、やっぱり聖霊が働くという事が、典礼の中心的な信仰理解であります。

次にこの、「事効的」っていう聞き慣れない言葉ですが、どっかで聞いたかもしれません。ex opere
operato というのですけれど、それは、特定の人が特定の言葉、特定の動作、特定のしるしを実行する、言葉としるしをむすびつけることによって、神の恵みが伝えられるという意味です。司祭に主としてあてはめられますが、司祭でない人も神の恵みを伝えることができるわけです。ご存知かと思いますが、洗礼ですね、洗礼は通常は司祭、あるいは助祭が執行しますけれども、緊急の場合、理由があれば誰でも洗礼を授けることができるというのを聞いていますよね。その人の力ではないんです。そのように約束されているから、神の恵みが特定の言葉、特定の動作を通して働きます、という意味であります。
 
次に「祈りの法は信仰の法」ということわざがあります。法っていうのは lex というのですけれどね。英語のlawです。祈りの法は「Lex Orandi」 と言いますね。信仰の法は「Lex Credendi」。我々は口先だけで、信じていない言葉を述べるのではない。信じていることを祈り、祈っていることを信じる。ですから、自分たちが、あるいは、教会が言葉で祈っていることを理解し、信じ、そして一緒に祈らなければならない。
典礼の時に告げられる言葉…聖書の言葉だけでなく、唱えられる言葉に注意を払っていただかなければならないのです。
2000年かかって、教会が築いてきた祈りの言葉、それは、「わたしたちはこのように信じています、そして信じていることが実現します、実現しています」という意味であります。

「堅信の秘跡」の時の祈りはここにあるとおりです。
「全能の神、主イエス・キリストの父よ。
 あなたは水と聖霊によって
 この人々にいのちを与え、罪から解放してくださいました。」
 
これは、洗礼のことを言っているんですね。
「洗礼」とは「水と聖霊によっていのちを与えること。罪から解放すること。」
そして、今度は「堅信の秘跡」が授けられます。

「いま、この人々の上に、助け主である聖霊を送り、
 知恵と理解、判断と勇気、
 神を知る恵み、
 神を愛し敬う心をお与えください。」

「聖霊の7つの賜物が授けられますように」と祈る。
堅信によって、聖霊が新たに与えられ聖霊の賜物が受堅者に与えられます、という意味をあらわす祈りであり、祈っているみ言葉の内容が、祈りを通して実現します、ということをあらわしているのです。
 
いま、急いで話した内容は、実は、わたくしが昔、書いた『カトリック教会の教え』(出版:カトリック中央協議会)の「秘跡・典礼編」の中にあることです。
あの本は四部に分かれていて、第一部は「信ずべきこと」、第二部が「典礼と秘跡」、第三部が「守るべきこと」、倫理ですね。第4部が「祈りについて」であって、第二部「秘跡と典礼について」は、わたしが原稿を準備し、日本の司教全員で検討して最終決定したものなのです。
以前、お話したかと思いますが、15年位経つと思います。

以上、まとめますと、わたしたちの信仰というのは、「イエス・キリストという人を信じます」、というところに中心があるわけですね。でも、イエス・キリストは目には見えない、目に見えるイエス・キリストの側にいた人でさえ、イエス・キリストを信ずることは難しかったようですね。
でも、この「復活」という出来事を、弟子たちは体験し、その「復活の喜び」、「復活のイエスに出会った喜び」というものを人々に伝えて、それに共感した人が仲間になり、教会ができたわけです。
それでは、その復活したイエス・キリストにどうやって出会いますか。いろいろな道があるわけです。その道の中で、カトリック教会としては、このような道があって、こうすれば、必ずそこに復活したイエス・キリストがおられます、ということを説明するのが「秘跡」であり、「典礼」であります。「典礼」の中心にあるお祈りが「秘跡」なのです。

ところで、「秘跡でない典礼」もあるんですね。
例えば、「教会の祈り」は個人的な祈りではなく、「教会として行う祈り」、これは「典礼」なんです。「葬儀」も「典礼」です、「結婚式」も「典礼」です。
ただ、「一人一人が自分の部屋で祈るお祈り」は大切で、イエスは、そういうお祈りを大切にするようにと言っておられます。

ですから、聖霊の働きを受けるために、わたしたちの心をいろいろな雑念から引き離して、神様が聖霊を通して語ってくださることに心を開かないといけない。これが難しいのですよね。いろいろなことが心に浮かんできて…。でも、そうした中で、静かに、心を上に挙げる。
「スルスム コルダ(sursum corda)」、と昔、呼んでいました。心を挙げる、ということを、神さまは求めています。わたしの声を聴きなさい、と。
ほかの声は、毎日、たくさん聞こえて来るのですが、大事なことは、「神の声を聴きなさい」、ということですね。

そして、「一人で聞くこと」と、「一緒に聞くこと」と両方があって、一人で聞くことは大切ですけれども、一緒に聞くことは、「お互いに励まし合い、助け合い、神の声を聞くことが容易になる」、と思います。そのための奉仕を、みなさんがなさっているわけですね。
ですから、本郷教会が東京教区の教会として、ほかの教会からも、本郷教会の典礼は本当に一生懸命よくやっていると、思ってもらえるような、そういう典礼になるように努力したいと思っております。

質問:≪ミサ中に、『聖書』を司祭が朗読しますね。その時に、み言葉を聞くと、いま、おっしゃった。聞くことを大事に、と。(朗読者と)一緒に(『聖書と典礼』の朗読箇所を)読みながら、聴くことがいいのか、それとも、置いて、聞くほうが良いのでしょうか≫

岡田大司教:イスラエルの伝統では「イスラエルよ、聞け(シェマ イスラエル)」と。そもそも書物はなかったわけですし、だから耳で聞くことは大事なのです。

今、残念なことにというか、あるいは、良いことにとも言えますが、聞いてわかるような「朗読」、つまり朗読者の朗読のしかた、もう一つはその「朗読の内容」そのものが聞いてわかる内容かどうか、という問題があるわけです。
『朗読聖書』というものを、教会は非常に重視しています。そこには二つ課題があるんです。朗読する側の問題、それからテキストの問題。
もちろん、日本の教会では、昔は、ラテン語しかなかったので、ラテン語は聞いてもわからない。
やっと、日本語に翻訳したのですが、その日本語が聞いてわかる言葉であるかどうかということが重大な問題なのです。

そこで、太田道子さん(聖書学者)に来ていただいて、その方面のお話を説明していただいていますが、われわれとかなり違う文化、言語、環境の中で生まれて、伝えられている『聖書』(旧約・新約全書)、そして「キリスト教」ですから、聞いても、わからない。
例えば、「嗣業」という言葉ですが、イスラエルは「神の嗣業」と言っても、「シジョウ」(?)「シギョウ」(?)始業式のシギョウかな、何だろう、とか。「嗣業」というのが分からないから、(今度の改訂で)言い換えようということになって、「分け前」だとか「遺産」だとかでしたか。
でも、そう聞いてもやはり分からないと思いますね。
太田道子さんのお話は、そういった点を説明してくださっていると思いますが、『聖書』というのは、大切なことをいろいろな表現で言い換えて、話しているわけです。
ですから、「主の祈り」にしても、
「天におられるわたしたちの父よ。
み名が聖とされますように、
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」
みこころが行われますように、ということを祈るわけですが、同じことを、
「み名が聖とされ」るということも、「みこころが行われ」ることと、ほぼ同じ内容なのです。
分かっても分からなくても、ともかく、聞きましょう。そこで、耳にとどくように、ゆっくり、はっきり読んでいただきたい。そして、終わったら、一瞬「沈黙の時間」を置いて、侍者が会衆を代表して、「神に感謝」と応える。
日本の典礼委員会が、全国の教会にお願いしたのは、「会衆は沈黙のうちに自分の席で、神の言葉を味わう」と。でも、これはローマが決めた規範版の規定と違うので、あちこちで、バリエーションができて、何種類にもなってしまいました。
本郷教会の主任司祭であられた関戸神父様も尽力されましたが、日本の司教協議会の典礼委員会が、日本の教会のためにこうしたい、ということを決めて、教皇庁に申請して、承認していただいたやり方でやろうということで歩んできていると思います。
とにかく、「神の言葉を、静かに聞こう」と、その言葉は、必ずしも、聞いただけでわかるわけではないのです。「神の言葉とわれわれの生活とのつながりを、どこに見つけるか」の助けを行うのが「説教」なのですね。説教というのは、日頃、司祭が信徒に、こうして欲しい、これはしないで欲しいというようなことを言う場所ではないのですが、(つい、ミサに遅れるなとか、言ってしまいますが)、今日告げられるイエスの言葉、神の言葉が、いまの日本の、この東京、その周辺で暮らしている人々の生活にどのように響くのか、ということを分かち合う。分かち合うのですが、一方的に司祭が言うだけでは皆さんに通じるかどうかわからないので、皆さんがどう受けとっているかを、司祭は聞かないといけないですね。
司祭は、聞く人でないといけないのですが、だんだん聞かなくなってしまいますね。
質問者≪では、み言葉を聞くことに対して、理解しづらい言葉がある場合には、(『聖書と典礼』のみことばを)いっしょに目で追っていってもいい、ということでしょうか。≫

それは、確かに理解できないと思います。わたくしも理解できないですから。ただ、何か、読まれたことの中で何かが心に響くことがある、それだけでもいいと思います。
或は、百歩譲って、何か聖書が読まれている。しかし、俺は毎日仕事で忙しいんだ。電車に乗ればワーワーガーガー。でも、いま、この全く無駄な時間を、神さまに献げる。ここにいて、幾ら貰うわけではない。むしろ、献金しなきゃいけないわけだから。しかし、全くこの世的に無駄な時間を過ごす、この「無駄」が大事だと思うのです。
「み言葉」は分かるように読まなければならないし、典礼の言葉、「奉献文」は、分かるように表現されているので、司祭は分かるように唱えるべきなのです。しかし、司祭は、何回も唱えているうちに、ムニャムニャと早口になってしまうかもしれないです。ましてや、昔は、ラテン語ですから、そうだったのです。

 それで、日本の教会で起こっている小さな混乱が、日本の教会がこうしたい、と決めて教皇庁に申請して認めてもらったことがいくつもあるんですね。しかし、それを知らない人がたくさんいる。それから、外国から来た人、最近信者になった人はそれを知らない。だから、こうなっているのにどうして違うのだろう、と。司祭ですら、日本に来て、いっしょうけんめい日本語を勉強して、自分の国で献げる典礼を日本語に直してやってしまいますので、全く日本の司教協議会の働きについて何も知らない司祭が随分いるんですね。まあ、でも大事なのは違いを糾弾しあうことではないと思います。