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イエスの福音への招き「お返しのできない人を招きなさい」

2019年09月01日

年間第22主日C年

2019年9月1日、本郷教会

第一朗読 シラ書 シラ3:17-18、20、28-29
第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 12:18-19、22-24a
福音朗読 ルカ14:1、7-14

説教

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

このようにイエスは今日の福音で言われました。お返しのできないような人を招きなさいという
この教えは非常に明解であります。しかし、わたしたちの常識には合わない、そして実行は難しいおしえでもあると思います。わたしたちの社会では、すべてがこの「お返し」という関係で成り立っているような気がします。物の売り買いの場合は、これは明白であって、対価交換。物を買うときにはその物の価値に見合った額のお金を払うわけであります。売買の場合はそうですけれども、売買でない場合は必ずしも対価を交換するというようにはなっておりませんが、かなりな影響を受けていて、わたしたちはいろいろな人との関係において、やはり、お返しをするという意識をもっているのではないでしょうか。あの方にはこうしていただいたからこのようにお返しする。或いは、あの方にこうしないと今後の自分の生活や仕事に差し支えが生ずる、とか、そのように考えて、ま、はっきり考えるわけではないけれども、そういうものの見方が身についております。教会もこの社会にある団体なので、いろいろな催しをするときに、どんな人を招くかということがあるわけです。そして、やはりその関係のある人たちをまずお呼びすると、そうすると、どの範囲までお呼びするのかという、その境界がどこにあるのかということを場合によっては考えることになる。このイエスの言葉のように実行すると、社会は混乱する。わたしたちの団体も難しいというように感じはしないだろうか。

神の国はこの世の論理とは違う論理に依って成り立っている。こうしたからこうしてもらえるだろうという期待を込めて行うのではなく、返しを期待しないで、無条件で必要なことを必要な人のために行うことが神の国のあり方ではないでしょうか。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。そうすれば隠れたことを見ておられる父があなたに報いてくださる」(マタイ6・3-4参照)ともイエスは教えておられます。

わたしたちが持っている価値あるもの、金銭、財産、だけでなく、健康とか能力とかは、自分のものではあるが、預かっているもの、自分だけの力で獲得したものではなくて、多くの方々のおかげで今の自分があるし、今自分が預かっているいろいろなものがあるわけであります。預かっている、それをどのように生かすかということにおいて、責任がありますが、自分の所有物ではない、自分が好きなように、自分のこうしたいと思う目標のためにどのように使ってもよいというものではないのであります。そのことを考えると、この宴会を催すというときに、自分のために、今後の自分のあり方にプラスになるような人を招くということは、神の国の考え方には沿っていないということになります。ま、そうは言っても、そんな風にしていたら成り立たないという現実もある。わたしたちは、その、この世の論理と神の国の考え方の両方のなかにいて、できるだけ神の国のあり方を実現するようにしているのではないでしょうか。

今日、この福音を皆さんと分かち合うに際して、ひとつ思いましたことは、この分かち合うという精神ではないかと思うんですね。  「分かち合う」 英語でshareという言葉がありますけれども、シェア。シェアする。すべては神様によってつくられ、神様によって与えられた賜物であります。すべてのものは神のもの、その神のものをわたしたちは分かち合っているわけであります。ですから、すべての人がお互いに神のもとにある兄弟姉妹であるということを思い、持っている人は持っていない人のために、いただいているものを分かち合う。そのようにすれば神の国のあり方が実現するのではないかと思う。自分の実力で自分の責任で獲得したんだから、自分がどのように使ってもよいという考え方ではないのであります。「ただで受けたものだからただで与えなさい」(マタイ10・8)、とも言われました。

さて今日は、日本のカトリック教会は「すべての被造物を大切にすることを祈る日」と定めました。すべての被造物、この自然、大地は、神の賜物であって、人間が自分の都合に合わせて濫用してはならないものであります。環境破壊という問題が強く意識されるようになりました。神様からいただいている素晴らしい賜物を自分の都合、自分の生活、自分の快適な生活のために悪用するという間違いを正して、そしてともに神様に感謝を捧げ、より簡素な質素な生活をするようにいたしましょう。    

今日の第二朗読は、次のように言っています。わたしたちの行先はどこであるかといいますと、「生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」であります。新しい天のエルサレムに向かってわたしたちはともにいっしょに歩んでいる。喜びも苦しみも悲しみも分かち合いながら、天のエルサレムに向かって歩んでいるわたしたちの旅を聖霊が導き、そして助けて下さることを今日あらためて確認いたしましょう。